もしも15000円のお金を誰かに盗まれたら、どう感じるでしょうか?
この時どう反応するかで、お金に対する概念がどうなのかがわかります。
「悔しい」と感じる人は、15000円という数字に捕らわれています。
それはそうでしょう。
15000円を得るために費やした自らの行動を思い出すからです。
でも僕はこうとらえます。
「お金は架空の電子データにすぎない。もしくは紙っぺらであり硬貨である。それ自体ではなんら意味を持つものではない」。
この世界では、お金が価値あるものとされています。
しかし実際のお金は通帳や口座などにあらわされる、電子データにすぎません。
現在のお金は不換紙幣であり、金などの価値あるものと交換できないものです。
あくまで国の中で、国家の信用の元に交換価値として発行されているもの。
僕たちはこの「ただの数字」を、少ないとか多いとか言って、サル山の猿のように一喜一憂しているんです。
まさに「ゲーム」ですね。
お金という価値基準を作り出し、それによって生活を成り立たせるゲームをしているんです、現代の人は。
お金を貯金しているようにみえますが、それは通帳に記載された数字がたまっているだけの現象です。
実際にはお金に実態はなく、記載された数字の増減を貯金だと錯覚して、安心感を得ているんです。
少なくとも日本に生まれてきている以上、生存における安心感は誰もが保証されています。
例えお金がすべてなくなっても、死ぬことはないんです。
「お金なんて存在していない」と考えてみてください。
それどころか「お金や豊かさは無限にある」と考えてみてください。
お金という紙や硬貨、電子データにはなんら価値がなく、ただ必要な豊かさが自分の元に流れ込み続けるんです。
豊かさは数字であらわせません。
豊かさはフラット(平坦)で、際限なく存在します。
その無限な豊かさが必要な時に存分に流れこんでくるということです。
豊かさが流れ込んでくるとき、お金という形をとるかもしれませんが、どういう形をとるかは問題ではありません。
ただ豊かさが存分に流れ込んでくることに、喜びを感じます。
「お金」から数字の概念を取り払い、無限に広がる豊かさの恵みととらえます。
そうすると仮に誰かに15000円を盗まれても、微動だにしなくなるでしょう。
なぜなら、自分から豊かさを奪うことはできないからです。
豊かさは無限なので、「奪う」という行為が存在できないんです。
また盗んだ相手に対しても、憎んだり仕返しをしたいと思わなくなります。
相手は無限にある豊かさを相応の手段で手に入れただけなので、もはや僕が関与する余地がないからです。
盗みを肯定しているのではありません。
わざわざ「盗み」をしなくても豊かさは好きなだけ手に入るのだから、そんなつまらないことに身をついやす相手に、むしろ哀れみを感じます。
目の前にある広大無辺な豊かさを、何人たりとも奪うことができないことを知っているからです。
だから仮に「15000円を盗まれた」という現象を前にしても、微動だにすることはないでしょう。
もう一度書きましょう。
お金から数字の概念を取り去らってください。
そして「お金=豊かさ」はフラット(平坦)であり、無限に広がっていることを思いだしてください。
豊かさはあなたの求めに応じて、存分に流れ込んできます。