僕はライフワークとして「幻想の森」というテーマで絵画や漫画の連作を行っている。
2017年3月初頭に、新たな油彩の「幻想の森」が出来たのでここでご紹介しよう。
揺らぐ幻想の森
タイトル 「揺らぐ幻想の森」
サイズ F6
油彩画
僕はいかにしてこの絵を構想し、描いていたのか?
実はこの絵は構想段階と完成品との間に大きな違いが生まれた作品である。
今日はなぜ絵の構想と完成品に違いが生まれたのか?
そこにはどんな創作法、理念があるのかについて見ていこうと思う。
作品はその瞬間の自分の感覚を切り取ったもの
僕は自分が描く一枚の絵は、その時その瞬間の自分の感覚を切り取った一側面であると思っている。
これはどういう意味なのか?
多くの人は絵を描くときまず絵の全体像を構想し、それに沿って絵を足し算で描き上げていくと思う。
足し算とは絵筆で徐々に描き加えて、初めに構想した絵に近づけていく作業ともいえる。
これは建築に例えられる。
設計図がまずあって、そのゴールへ向けて徐々に建築されていくような。
完成という頂上へ向けて一歩一歩のぼりつめてゆく登山ともいえよう。
絵画作品を制作するというのはおおむねこのような経路をたどるのではないか?
しかし僕が絵画を制作する時は話が違ってくる。
僕は設計図というものを大まかには決めるけれど、それがゴールにはならない。
絵を描こうとする時初めにこんな感じの絵が描きたいなという設計図が頭の中に生まれる。
では実際に描き始めると、僕は絵を描きながら思考を始めるのだ。
絵を描きながら、色を置きながら徐々に構想が変化していく。
「ここにこんな色を置くとこんな変化が生まれるのか。それならもっとここを変化させたら面白くなるかもしれない」
というような発見が生まれてくる。
絵画を描く中で、絵の持つ意味、見え方、自分の作品内での位置づけなどの考えが生まれる。
構想(設計図)は絵を描く際のキッカケであり、絵を描く中で考え、描く中で絵は変容していくのだ。
そして最終的に出来上がるものは僕も予想外の何かであることが多い。
その時その瞬間の生命の躍動が絵に反映される
絵画は生ものなので、機械で大量生産するようには出来ない。
絵を描く人間の心境、状態が制作に大きく関わってくる。
そして芸術作品の最大の魅力の一つがここにあると思っている。
絵を描く人の内的心境が明確に作品に反映されるのだ。
生命の躍動が絵にうつりこむ。
自分の内心は作品の中で隠すことが出来ない。
筆のタッチ、色使いと色の選別、形態の描きかた、コンセプトとタイトルのつけ方等に作者の個人的資質を含めた状態が明確に現れる。
このように制作された絵画は世の中にたった一点しか存在しない、きわめて貴重なものとなる。
印刷では絶対に出せないニュアンスが本物の絵画にはあるからだ。
絵画に刻まれた個人的な資質、状態は作風を形作る。
作者の気質が色濃く反映される絵画では、その時、その瞬間にしか描きえない絵が生まれるのだ。
別の機会に同じものを作ろうとしても、不可能だろう。
もちろん表面的に似せて描くことは出来る。
しかし僕は絵画を描きながら考え、描きながら絵が生育されていく。
まさに生ものである。
その時その瞬間の僕の思考、選択、迷い、決断が絵を構築していくのだ。
この全過程を含めて初めて作品と呼ばれる。
だから表面的に似せて描いただけの絵では、本当にその作品を描いたとは言えないのである。
では「揺らぐ幻想の森」で僕はどのような思考過程で絵を描いたのだろうか?
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初めのコンセプトは「幻想の森をさまよう少女」だった
「揺らぐ幻想の森」の初めのコンセプトは「幻想の森をさまよう少女」で、上の画像のような絵を構想していた。
実際に僕は絵が完成する直前まで少女を描き込んでいた。
構想画と完成画を見比べてもらうと分かるかもしれない。
本来少女がいるはずだった所が微妙に塗りつぶされていることが。
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僕はこの絵を描くときに思考していた。
この絵はどのように描くと一番生きるのかと?
それは実際に描く中で判明される。
最初にあった構想は頭の中での姿であり、描く行為の中で絵は生成変化する。
こちらの方が絵が生きると感じれば、迷うことなく変化させていく。
絵自体が描かれる中で自らの存在を定義つけていく。
絵自体が意思を持ち、僕に方向性を指し示すと言ったらよいだろうか。
絵を描くという行為は、その絵との対話なのだ。
絵との対話から漠然とした構想が形を帯び始める。
絵が自らの意思を主張し、僕に描かせる。
そんな過程のなかで、絵は生まれている。
一点一点はその瞬間、思考の時にしか生まれえない。
だからどんな一点の絵も貴重なものとなる。
僕は初め幻想の森に迷った少女というメルヘンチックな構想から描き始めた。
しかし絵の方が僕にこう言ってきた。
「少女を描くのはまた後の機会にしろ。今回の絵では純粋に幻想の森自体を描け。主役は森である自分だ。」
…と。
魂を絵に込めるというのは絵がそれ自体の意思を主張するほど深く創作に入ることを言う。
僕は幻想の森に迷う少女は別の機会に移し、森自体を主役にして描く方向へと転換した。
まとめ
僕が最終的に「揺らぐ幻想の森」で表現したコンセプトを最後に書かせていただこう。
「森を描かずして森を描く」
という試みをこの絵で行った。
良く見ていただくとこの絵には森らしい形態は描かれていない。
全体としては森っぽく見えるだろう。
しかし部分的に見ると細かい単線の重なりでしかない。
緑の色彩が森っぽさを演出しているけど、はっきり分かる木の線描はしていない。
なぜこんな描きかたをするのか?
その答えは僕の創作テーマにある。
「幻想と自然」
これは自分が手掛ける全ての漫画アートに貫かれるテーマである。
そして僕の中の「幻想」を表現する手段としてあえて「森を描かずに森を描く」という事をしたのだ。
全てを淡くボカシて、幻想的な雰囲気を描きたかった。
そんなことを考えた時、森に立つ少女は今作では不要と判断したわけである。
僕は絵を描くとき様々な手法を選ぶだろう。
その時々で描きかたが違ってくるかもしれない。
しかし本質の部分では一貫している。
それは「幻想と自然」を描いているという点にある。
僕は自分の感覚をより明確に絵で表現できるようになるための
試行錯誤をしている。
その一環が「揺らぐ幻想の森」であった。
だから僕は連作という手法を選択する。
あるテーマを連作することにより様々な手法をためし、より自分に合った表現を見つける。
そしてそのテーマにより深く切り込み、自分と一体化させるため。
絵画は、芸術は生ものである。
その時、その瞬間にしか描けない何かを描く。
それがある作家の個性として作品に刻まれる。
僕にとって一点一点の絵画は人生のある瞬間を切り取った感覚の表現である。
作品はそれら点と点が結びついた全体。
作者の生き方、信念、哲学…
つまり人生全体が作品と呼べるのだ。
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