僕は芸術と出会うことで、人生を生きる意味を見出した。
芸術とは何かを教えてくれたのは、ファン・ゴッホやジョンレノンやミケランジェロたちの生きざまだった。
筆者にとって芸術との出会いは、強烈な自己表現と結びついている。
それはなぜなのか?
この記事では芸術との出会いが、なぜ自己表現につながったのかについて書いていこう。
Contents
芸術との出会いはゴッホの衝撃?
ぼくにとって芸術との出会いとは、ファン・ゴッホとの出会いといっても過言ではない。
ゴッホの存在を知ることで、芸術とは強烈な自己表現という概念につながったのだ。
僕は高校を卒業するまでほとんど勉強をしなかったから、美術のこともろくに知らなかった。
父がたくさん美術の本を持っていたから、幼い頃に画集をみてゴッホの絵は見ていたと思う。
僕は18歳のころから図書館に通い、本をたくさん読むようになる。
図書館には芸術関係の本がたくさんあって、ぼくはそこで美術の世界を知ることになる。
図書館が、芸術やファンゴッホとの出会いとなったったのだ。
僕は図書館でミケランジェロやセザンヌ、ゴーギャンやピカソ、ゴッホなどの芸術家を知った。
ゴッホやゴーギャンやセザンヌ…彼らの名前の響きが、とても懐かしかった。
前世で関係があったのではないかと思わせるくらい、芸術家たちの名前の響きが懐かしかった。
特にファン・ゴッホとゴーギャンの特徴的な絵に、懐かしさを感じた。
セザンヌののっぺりした絵画にも、懐かしさを感じた。
とりわけセザンヌの「大水浴図」には、魂の奥をつかまれるような魅力を感じた!
ファン・ゴッホたちの絵画を見たとき、一発で素晴らしい!と思った。
それ以来、筆者は図書館で美術の本を借りては読むようになった。
美術の本を見ているうちに、自分でもデッサンや油絵を描きたくなってきた。
こうして18歳で、ぼくはアートを作り出すようになる。
これが筆者と芸術との出会いだった。
ファン・ゴッホを兄弟と感じた?
素晴らしい芸術家はたくさんいるけど、ゴッホは僕にとって特別な存在だった。
ゴッホの生き方、作品、人生は僕にとって、とても共感を感じる存在だったのだ。
ゴッホという名前の響きが、とても懐かしく感じた。
ゴッホのデッサンや絵画にも、懐かしさを感じた。
当時のぼくはうつ病的な症状があったので、変わり者のゴッホの生き方に、ものすごく共感したのだ。
ゴッホの絵のタッチは、当時の僕の心の状態をあらわしているようだった。
だから、余計に共感を感じた。
ぼくは図書館でゴッホの伝記をたくさん借りて読みだした。
そうすると、ゴッホという人間がだいたいどんな感じの人だったかが、つかめてくる。
僕は、ゴッホと自分が似ているように感じた。
ゴッホが生き、感じ、表現したものに、他人事ではない共感を覚えたのだ。
それ以来僕は、ファン・ゴッホを「兄弟」と感じるようになった。
今でもそうだ。
漫画アートを作る時、ファン・ゴッホの魂が筆者に揺るぎないパワーを与える。
僕はゴッホの生きざまを見て芸術や表現とは、強烈なる自己表現なのだということを感じた。
18歳当時の僕は、人生をあきらめた囚人のように生きていた。
学校などの自分に合わない生活を続けてきたことでストレスがたまり、うつ病のような状態にあったのだ。
ファン・ゴッホは苦悩の人生を生きた画家だったので、当時の僕と通じるものがあった。
ゴッホは弟という良き協力者はいたけど、基本的に孤独な人だった。
ゴッホは真面目なわりに気性が激しく、よく周りともめごとを起こす人だった。
ゴッホは絵を描くことで生計を立てようとしたけど、思うように絵は売れなかった。
ゴッホは後年ゴーギャンとの仲たがいがきっかけで、精神を病む。
自分の耳をカミソリで切り落とし、なじみの娼婦に切り取った耳をプレゼントしたこともあった。
その後ゴッホは、サンレミの精神病院に入る。
ゴッホは生活費を弟のテオから支給されていた。
しかしゴッホの絵はなかなか売れなかったので、テオに恩返しをすることができずにいた。
テオから支給されたお金の中から画材代を出し、日々の生活を営んでいたゴッホ。
まともな食事もあまりできなかっただろう。
パンを食べたり強い酒を飲んで空腹を紛らわしていたこともあったに違いない。
そんな生活のなかでもゴッホは、情熱的に絵画の制作に没頭した。
ゴッホは心の不安や苦悩、創造の喜び、芸術に対する感動の思いを、手紙で書いた。
自分のなかに渦巻く不安の思いを、絵画のなかで表現した。
そんなゴッホの描く絵や言葉は、精神を病み始めていた僕に強く響いた。
僕は、ファン・ゴッホに自分を投影した。
ゴッホのように自然を見て、絵を描くようになった。
その時点でファン・ゴッホは、僕の兄弟となったのだ。
僕のアートの出発は、ファン・ゴッホと共に始まったと言える。
そしてファン・ゴッホから受けた感動を自らの漫画アートに吸収して、制作を行うようになった。
これが筆者と芸術の出会いだったのだ。
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ジョンレノンという芸術家との出会い
ジョンレノンの存在を知ったことも、僕にとって重要な芸術との出会いだった。
父が昔の洋楽のCDをたくさん持っていたので、それを通してビートルズやジョン・レノンの存在を知った。
僕はビートルズの中でも、とりわけジョンレノンが好きだ。
家にあったジョン・レノン語録という本を読んでいた時、以下の言葉を見かけて、とても感動した。
「僕は12歳の時、自分が天才に間違いないと思っていた」
~ジョンレノン
ジョンレノンは幼い頃から幻覚のようなものを見ていたと、書いている。
ジョンレノンは子供のころから、創造性にあふれていた。
ジョンレノンは子供のころ、自分が明らかに他の子と違うことを意識していたようだ。
ジョンレノンは独特な感性を持つ子供だったので、周りから理解されづらいところがあった。
ジョンレノンは周りから理解されなかった自分を、ディラントマスやオスカーワイルド、ファンゴッホになぞらえて見ていた。
このジョンレノンの発想が、とても面白いと思った。
強烈な創造性を発揮する人は個性が強いので、一般社会のなかでは変わった人という扱いを受けることが多い。
ジョンレノンが自分となぞらえた、ディラントマス(イギリスの詩人)もオスカーワイルド(イギリスの作家、劇作家)も、ファンゴッホも風変わりなところがあった。
例えばディラントマスは、酒におぼれる傾向があった。
ディラントマスの詩は同時代の詩人とは一線を画しており、20世紀の英語による詩人の内で、最も偉大な人物の1人とされている。
オスカー・ワイルドは19世紀末に活躍した劇作家、詩人で、「ドリアン・グレイの肖像」などの名作を残している。
しかしオスカー・ワイルドは当時の社会ではタブーとされる、ゲイだった。
このためオスカー・ワイルドは男色が原因で、刑務所に入れられる。
刑務所から出た後は、以前のように社交界の人気者になることはできず、失意のまま亡くなった。
このようにゴッホを含め創造性のある表現者は、強い個性ゆえに逆に社会から浮き立ってしまうところがあった。
ジョンレノンは、そんな異端な表現者に共感を感じ、自分をなぞらえていたのだ。
ジョンレノンがディラントマスたちに感じたようなことを、僕はゴッホに対して感じていた。
ジョン・レノンがゴッホのことを語っていたことを知り、ゴッホに対して興味がわく。
こうしてゴッホの伝記などをたくさん読むようになった。
筆者と芸術との出会いだった。
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ゴッホの自画像を模写している時にインスピレーションが降りる
歴史に残る芸術家たちを知り興味を持った僕は、様々な偉人の伝記を読みあさった。
とりわけファン・ゴッホの伝記は何度も読んだ。
僕にはゴッホの気持ちが理解できた。
何というか、性格的にすごく似ていると思った。
なので彼の画集を手に入れて、鉛筆で模写を始めた。
18歳の頃である。
それまでの僕は漫画は描いていたけど、美術としての絵はほとんど描いたことがなかった。
デッサンをするのも初めてに近かった。
漫画は見よう見まねで描いてたから、絵の基礎なんて全然なかった。
この時まで、美術の世界を全く知らないまま過ごしてきたのだ。
今でも覚えているが、18歳のとき机でゴッホの自画像を模写していた。
これがその時に描いた絵。
ゴッホの自画像を描いていて、以下のインスピレーションを感じた。
自分も絵を描く人になろう!
ぼくは18歳の頃にセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、ミケランジェロ、ピカソなどの存在を知って世界が変わった。
絵を描いて、ここまで永遠な存在になれるのか!
これは凄いことだと思った。
絵を描いて自分を表現することが、とても面白く感じられた。
芸術との出会いは、大いなる発見だったのだ。
僕はそれ以来、アートとして絵を描きだすようになる。
音楽を演奏したり漫画を描いたりしてたけど、そこにアートが加わった。
それ以来アートは、僕の中心的な表現となった。
絵を描くことは自己表現
なぜ筆者は、絵を描くのか?
それは本能的な、自己表現欲求にある。
無意識のうちに、自分を表明したい衝動に駆られるのだ。
僕は漫画や絵を描くことが好きだから、必然的にそれで自身を表明することになる。
漫画とアートを分けたりはしない。
漫画とアートは、一つのものなのだ。
だからこう呼ぶことにしよう
「漫画アート」と。
ゴッホやピカソやジョン・レノンは、芸術を作るとは、自分自身を強烈に表現することだと教えてくれた。
僕は18歳の時にこれを知って、人生が変わった。
漫画とアートで強烈に自己表現ができる!
この意欲が、僕を創造に駆り立てるのだ。
これが筆者と芸術との出会いだった。
漫画アート芸術家の創造人生は、以下の記事に続く♪