あなたはキュビズムという言葉を聞いたことがあるだろうか?
キュビズムは、20世紀の美術史上を革命した絵画運動である。
キュビズムの創始者の一人が、スペイン生まれの芸術家パブロ・ピカソ。
ピカソはフランスの画家ジョルジュ・ブラックと手を組んで、キュビズムの手法を開拓していった。
キュビズムを切り開いた記念すべき作品が、ピカソによって描かれた油彩画「アヴィニョンの娘たち」。
アヴィニョンの娘たちから、ピカソとブラックのキュビズム革命が始まる。
ここではピカソとブラックが創始した20世紀の革命的表現、キュビズムについて解説しよう!
2021年10月24日追記
キュビズムのネタで描いた4コマ漫画があるので、まずはそちらをどうぞ♪
前後のブログ連載漫画「もっとがんばれ!バカオくん」は以下リンクに♪
Contents
アヴィニョンの娘たちはキュビズムを象徴する作品
ピカソは1907年アヴィニョンの娘たちによって、キュビズム革命を行った。
ピカソはアヴィニョンの娘たちを描いたとき、すぐには絵を発表しなかった。
アヴィニョンの娘たちがあまりにこれまでの美術とかけ離れているため、理解されるのが難しいと思っていたのかもしれない。
実際、画家仲間のなかには「ピカソはいつかアヴィニョンの娘たちの裏で首を吊るだろう」なんて陰口をたたく者までいた。
それくらいアヴィニョンの娘たちは革命的な絵画表現だったのだ。
しかしブラックはピカソが描いた絵画の革新性に気がついていた。
そのためブラック自身もキュビズムの手法を使って絵を描きだすようになる。
キュビズムが生まれる前の美術状況
キュビズムが起こる以前の美術といえば、モネやルノワールなど印象派の画家たちがいた。
その後、印象派の流れを受けつつもその先を目指した後期印象派が登場する。
後期印象派といえばゴッホやゴーギャン、セザンヌやスーラなたちのこと。
他にはゴーギャンの影響を受けたナビ派という絵画運動も誕生した。
ゴッホやムンクから、色や形を自由に使って表現することを学んだ画家たちは、20世紀初頭にフォーヴィズム(野獣派)という絵画運動を始めた。
フォーヴィズムの代表者はアンリ・マティス、アンドレ・ドラン、ヴラマンクなどがいる。
原色を使い、対象は激しく歪み、自己表現の極致とも言える大胆な表現で描かれるフォーヴィズム。
その一方で、感情的すぎるフォーヴィズム表現に対抗するような絵画の勢力が生まれた。
それが、キュビズムである。
キュビズムは感情を抑止したような、幾何学的な形態の作品が多い。
フォービズムが色によって絵画を革命をしたとすれば、キュビズムは形態の革命をしたといわれることもあるようだ。
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キュビズムはどんな絵画?
キュビズムとは一体どんな絵画だろうか?
一見するとわけの分からない形の集まりのように見えるキュビズムの絵画。
しかしそこにはキュビズム独自の絵画様式がある。
以下からキュビズムの絵画様式について見ていこう。
1.キュビズムは遠近法を無視している
キュビズムは単一焦点の遠近法を無視している。
遠近法といえばルネサンスの時代から続いてきた、遠くの方へ行くほどモノが小さく見えてくるという描きかたのことだ。
漫画の背景でも遠くにあるものほど小さく描かれるので、距離感を感じさせることができる。
ルネサンスからピカソの時代まで約500年近くつづいてきた遠近法を使った絵画。
絵を描くうえで当たり前だった遠近法を、ピカソ達は無視したことになる。
これは大いなる絵画の革命と呼べるだろう。
19世紀に写真が発明されて依頼、絵画は現実を写す役目から解き放たれたのだ。
そのため、形態を破壊するキュビズム表現が生まれ得たといえる。
2.キュビズムは複数の視点を絵画に入れて画面を再構成した
キュビズムの絵画には複数の視点が入っている。
ふつう人は1つの視点から絵を描くだろう。
例えばリンゴを描くとすれば、リンゴの正面から描いたらそこから見えた視点で絵を描ききる。
リンゴを真正面から描いていたら、リンゴの裏面は見えないだろう。
でもキュビズムの絵画では一つの画面に複数の視点が存在する。
真正面から見えるリンゴと同時に、斜め上から見えるリンゴが描かれてもおかしくないということだ。
そしてキュビズムでは画面に複数の視点を入れて、画面を再構成している。
複数の視点が一つの絵に入ることで奇妙な歪みが生じ、画面自体を新しく構築しなおしているということだ。
目に見える風景をただ写すのではなく、複数の視点を入れて画面の見え方を変えるという描き方。
多視点から対象を描くことで、新しい見えかたに再構築して、キュビズムの画家は表現を行ったのだ。
ピカソの「泣く女」の顔が奇妙に歪んで描かれるのは、キュビズムのこのような理由による。
現実に見える対象を一度破壊し、芸術として作り直しているのだ。
キュビズムは、新しいものの見方を示したといえるだろう。
3.キュビズムは形態を分解する
キュビズムの絵画は形態を分解して、それぞれの要素を単純化したり抽象的に描いたりする。
例えば車を描くとしたら車の本体、タイヤ、ハンドルと形態をバラバラにする。
そのうえで車の本体は単純な形にして、タイヤは三角形にして、ハンドルは奇妙な線にして、パズルのように再構築して絵を描くような感じの表現法だ。
もはやキュビズムでは描く対象の形が、元の姿をとどめていない。
キュビズムの画家たちは、対象の外見を描き写したいわけではなかった。
対象の要素を分解し変形し、組み立て直す、まるで子供がおもちゃで遊ぶように斬新な、絵画の創作法だったのだ。
4.キュビズムは色々な分野の表現に影響を与えた
ピカソ達が創始したキュビズムは絵画だけにとどまらず、いろいろなジャンルの表現にも影響を与えた。
彫刻やデザイン、写真や建築などへもキュビズムは波及していく。
20世紀の美術運動のなかでも、ロシア構成主義や未来派、抽象絵画は特にキュビズムの強い影響を受けていた。
このキュビズムの流れがパピエ・コレやコラージュ、アッサンブラージュなどの表現へもつながっていった。
キュビズムがロックンロール音楽にも影響を及ぼしていると、昔なにかの映像でみたことがある。
こうみると、キュビズムは20世紀の文化に深く関わっているのが分かる。
キュビズムがしたかったこと
キュビズムの絵画は批評家たちから「キューブの集まりのようだ」と言われたことがある。
それもそのはず、キュビズムは幾何学的な形が寄せ集まって奇妙な画面を作り出しているのだから。
では、キュビズムは一体何をしたかったのか?
キュビズムは現実にある対象を、絵画という二次元の世界に再構成して表現する絵画手法だった。
後期印象派のゴッホやゴーギャンたちは、対象の色や形を極端に主張して描いた。
しかしピカソたちは形態を解体して、組み立て直すという方法に出る。
まるで子供がおもちゃをバラバラにして、別の何かに組み立て直すような創作法だ。
そしてそこには、画家の意図した表現がある。
キュビズムで描く場合、対象は画家が創作を行うきっかけに過ぎないのかもしれない。
対象は形態を崩され、形は変形されて、画家の意図に沿った形で絵画になっていく。
キュビズムはなんと革新的な描き方だろうか!
ピカソやブラックにとって絵画は現実を写すものではなく、絵画それ自体の世界観を追求していくものとなったのだ。
絵画は壁に飾る装飾品の域を出て、それ自体で完結する芸術となったのだ。
そしてピカソたちのキュビズムは、画家自身を強烈に表現していたのである。
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キュビズムが生まれるきっかけとなった画家とは?
ではキュビズムに影響を与えたものは何だったのだろうか?
それが19世紀フランスで活躍した後期印象派の画家、ポール・セザンヌだ。
セザンヌは「自然を円錐、円筒、球体によって処理する」という言葉を残している。
印象派の絵画は光の移り変りをキャンバスにとどめようとする絵画様式だった。
セザンヌからしたら印象派の描き方は、単なる自然のコピーに映ったのかだろう。
セザンヌは印象派の描き方に飽き足らず、より自分にしか描けない堅固な構成の絵画制作に向かう。
セザンヌは自然の模倣から抜け出し、絶対不変な自身の感覚による絵画を作ろうとした。
その結果、セザンヌは以下の斬新な絵画表現をおこなう。
●一枚の絵に複数の視点を入れて絵を描く
●対象を丸や三角や四角など、幾何学形態としてとらえた
●対象の一瞬のうつろいを描くのではなく、絶対不変な存在感を描こうとした
これを見ると、まるでキュビズム絵画のようだ。
ピカソ達はセザンヌの革新的表現に影響を受けて、キュビズムを生み出したのだ。
ピカソが「近代絵画の父」と呼んだように、20世紀美術を代表するキュビズムに影響を与えていたのがセザンヌだった。
キュビズムに影響を与えた彫刻とは?
もうひとつキュビズムの誕生に影響を与えたものがある。
アフリカ彫刻である。
どことなくキュビズムを思わせるような形態感のあるアフリカ彫刻。
実際アヴィニョンの娘たちには、アフリカやオセアニアの彫刻にインスピレーションを得て描かれたあとが見つかっている。
ピカソはアフリカ彫刻のような原始的な美術に惹かれる傾向があった。
物事の本質を表現しようとするとき、原点に戻ることが必要になるのかもしれない。
原始的なアフリカ彫刻といえば、ピカソの時代よりはるか以前のこと。
原始的彫刻がキュビズム誕生に関わっていたと知って、ぼくはプリミティブ(原始的)芸術の奥の深さを感じた。
原始的美術とセザンヌの影響、この二つが融合して創造されたのがキュビズムなのである。
キュビズム絵画の時代的変貌
キュビズムにも時代によって様式の違いがある。
一番初めのキュビズムは「セザンヌ的キュビズム」と呼ばれる。
セザンヌ的キュビズムは、後の分析的キュビズムといっしょくたにされることもある。
セザンヌ的キュビズムでは描く対象が、立方体みたいに単純化されていった。
人間でも風景でも動物でも、描く対象は単純な幾何学模様に変換されて描かれる。
次に来るのが1909年頃から始まる「分析的キュビズム」である。
ピカソは画面の3次元の対象をいかに2次元の絵で表現したのか?
ピカソがたどり着いたのは対象を幾何学的な細かい断面に分解して、モザイクのように重ね合わせる手法だった。
描かれる対象はバラバラに破壊、分解されて組み立て直されていく。
色や光を抑制し、線と面による画面の構築に主眼がおかれた表現法が、分析的キュビズムだ。
しかしこのように描かれる分析的キュビズムは、何が描かれているか分からないものになっていく。
ピカソもブラックもキュビズムで奇妙な絵を作るようになったけど、完全な抽象画には生涯いかなかった。
ピカソやブラックは、あくまで現実にある対象をもとに絵を描く画家だったのだ。
例えばシャガールなら、幻想的なイメージを絵に描いている。
まるで空想の世界を描くように。
でもピカソはキュビズムで対象の形態を破壊しつつも、あくまで現実にある対象の痕跡をとどめている。
ピカソは現実を描く画家だったのだ。
実はファン・ゴッホも同じである。
ゴッホも現実にある対象物を描く画家だった。
この点で、ピカソとゴッホは現実に基礎を置くレアリストの画家だったと言える。
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総合的キュビズムとロココ的キュビズム
1912年頃になると、キュビズムにも変化が現れる。
この時期を「総合的キュビズム」と呼ぶ。
総合的キュビズムの時代、ピカソはパピエやコラージュという表現も始めている。
パピエ・コレでは作品のなかに、新聞紙や雑誌などの紙、壁紙、木片などをはりつけたりする。
新聞紙や壁紙など現実にあるものを絵画のなかに持ち込んで、絵に現実との接点を維持した。
絵の中に文字を書いたり、糊で紙をはりつけたりなど、従来の絵画とはより異なる方向へ向かった表現だ。
総合的キュビズムの時代には、画面の中に色彩が復活した。
それまでのキュビズム絵画は、光や色味をおさえたような描き方が多かった。
しかし総合的キュビズムの時代になると、色による主張も始まったのである。
1914年頃になると「ロココ的キュビズム」の時代が来る。
ピカソはロココ的キュビズム時代、緑を多く使用して飾り物のような作品を作っている。
この時代のピカソ作品がロココ時代の絵画みたいに優美なことから、ロココ的キュビズムと呼ばれるようになった。
キュビズムは対象を知覚でとらえて再構成した絵画
キュビズムは感覚に訴えるフォーヴィズムと対極に位置する絵画だ。
キュビズムは、知覚に訴えることを意図した絵画といえるかもしれない。
キュビズムによって、絵は目で見た世界を描くものではなくなった。
画家は、知覚を通してとらえた世界を描くようになったのだ。
ピカソの時代、絵画は対象を模倣するのではなく、自立した絵画独自の存在価値を見出し始めた。
キュビズムでは対象に似ているからとか、美しいとか、上手く描けているからという絵画の評価基準ではなくなったといえる。
ピカソやブラックのキュビズムは、現実にあるものを発端に創作がすすめられた。
しかしそれによってできた絵画は、現実とは結び付かない奇妙な画面になっていた。
キュビズムが誕生したとき、絵画はそれ自体の存在意義を主張するようになったのだ。
ピカソたちのキュビズムの最後に
ここまでピカソとブラックが創始したキュビズムについて見てきた。
20世紀モダンアートを決定づけた記念碑的作品、アヴィニョンの娘たち。
この作品からキュビズムの革新は始まった。
「アヴィニョンの娘たち」は現代においても作品に対する解釈や論争が絶えないが、変わらず新鮮な感動を与えてくれる。
ピカソとブラックが切り開いたキュビズムはのちの画家に大きな影響を与え、多くの追随者を生み出した。
フェルナン・レジェ、ファン・グリス、ピカビアなどが、ピカソたちのキュビズムに続いた。
そこからピュリスム、イタリアの未来派、ダダイズムや新造形主義にまで、キュビズムの影響は発展する。
キュビズムの影響は絵画の分野だけにとどまらない。
その後の彫刻、広告、ロックンロール、漫画といった20世紀を代表する表現媒体にまで、何らかの痕跡を残している。
ここを見るとき、キュビズムでピカソたちがいかにすごい発明をしたかが分かる。
アヴィニョンの娘たちでキュビスムが切り開かれる2年前、アインシュタインが世界を変える発明をした。
1905年の特殊相対性理論の発表である。
歴史を変える発明は、ある一個人の天才によって生まれている。
僕はこの不思議な創造性にいつも尽きない興味をそそられるのだ。
ピカソとブラックが創始したキュビズムは、20世紀の文化に大きな影響を与えていたのである。