この記事ではゴッホの弟がゴッホに当てて書いた、とても感動的な手紙の内容を見ていこう!
それと同時に、芸術とは何かについて僕は強烈に表明していくだろう。
ゴッホはその生涯で700通以上の手紙を親族や知人とかわしている。
今回紹介する手紙は弟がゴッホに当てて書いたもので、僕はこれを読んだときものすごく感動した!
芸術とは何かが知りたい人と、ゴッホの弟が書いた感動的な手紙の内容が知りたい人だけが、この先を読んで欲しい。
Contents
ゴッホの弟が兄に向けて書いた手紙の内容とは?
弟のテオがゴッホにこの手紙を書いたとき、ゴッホは精神錯乱のためにサンレミの精神病院に入りながら絵を描いていた。
以下が弟のテオがゴッホに当てて書いた手紙の内容だ。
「このところの君の作品は皆かつてないような力強い色彩に彩られている。
それはもう君の絵の本質を示すたぐいまれな特徴なのだ。
それだけではない、君はさらにその先を進んでいる。
多くの絵で形をねじ曲げ、デフォルメまでして内なるものを象徴させようと追い求めている。
君が深いつながりを感じている自然や生き物への思いを凝縮した表現にそれが見事に現れている。
だがそれにたどり着くまで君はどんなに頭を酷使したことだろう。
どんなに目まいするような極限まで自分を追い詰める危険を冒したことだろう」
~テオ・ファン・ゴッホ
僕はこの手紙を読んだとき、心に一線の光がよぎった!
感動の光がよぎったのだ!
それは芸術の灯である!
僕は言う。
「絵を描くとは、芸術とは強烈に自己を表現する」ことにあると。
僕は18歳のときにファン・ゴッホを知り、アートの道に足を踏み入れた。
そして今あらためてゴッホの人生や、弟が書いた手紙を見るとき、強烈な感銘を受ける!
芸術とはこれだなのだ!と。
さあ、弟がゴッホに書いた手紙の何に感動したのかを書いていこう!
内なるものを作品に象徴させる!
ゴッホの弟が書いた手紙の、一体何に感動したのか?
まず「内なるものを作品に象徴させる」という言葉に、芸術魂をビビっと刺激された!
僕も内なるものを作品に象徴させることがある。
以下の絵は僕が内なる思いを作品に象徴させたもの。
僕はこのような絵を描いているので、弟のテオがゴッホに書いた手紙の重要性を強く感じたのだ!
テオの書いた以下の部分が特に重要である!
「多くの絵で形をねじ曲げ、デフォルメまでして内なるものを象徴させようと追い求めている。
君が深いつながりを感じている自然や生き物への思いを凝縮した表現にそれが見事に現れている。」
~テオ・ファン・ゴッホ
この部分が素晴らしいのだ!
普通絵を描くというのは対象をそっくり描き、似ていたらうまい、似ていなかったら下手という判断のされかたをするだろう。
しかし、弟がゴッホに書いた手紙の言葉は、その前提が違っている!
ゴッホの弟の手紙が基準に置くものは「内なるものを象徴させる」ということにある。
内なるものとはゴッホが「深いつながりを感じている自然や生き物への思い」。
これは自分の好きなもの、愛するもの、深い感銘を受けるもの、つまり表現者自身の感覚である!
表現者自身の感覚とはそれを生み出す人、そのもののことだ!
弟の手紙は「絵を描く当人自身を作品のなかに象徴させる」ということを言っているのだ!
なんと芸術の本質を突いた、重要な言葉だろうか!
僕はすべて芸術と名のつくものは、ゴッホの弟が書いた手紙の前提のうえにあると思う。
作り方のマニュアルがあってそれに従って自動的に作られるようなものは、芸術ではない!
それは工業製品である!
芸術とは自己の強烈な魂の表明なのだ!
芸術として何かを表現しようとするとき、その基準は自分自身にある。
対象をどうとらえ、何を、いかにして表現するのか?
これを決めるのは表現者自身である!
他の誰でもないのだ!
基準は、アートを見るお客さんでさえない。
こう書くと、なんとひとりよがりな意見だと思う方もいるだろう。
それでよいのだ!
芸術とは、恐るべき自己の魂の表現なのである!
芸術で商売をしようと思うなら、市場を観察してお客さんを意識した作品を作ったほうが賢い。
しかし僕はゴッホの弟が兄に当てて書いた手紙に胸を打たれたのだ!
内なるものを象徴せよという言葉が、ひどく胸に突き刺さったのだ!
だから僕はあえて言う。
「芸術とは強力に自己を爆発させる行為なのだと!」
岡本太郎氏の「芸術は爆発だ!」は、まさに芸術の本質をついているのだ!
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ゴッホの弟が書いた手紙は芸術の本質を教えてくれる
芸術の本質とは、答えがあるものではない。
芸術の本質は表現者それぞれが、自ら答えを見出すものだ。
だから芸術の本質を学校の先生に教えてもらおうと思っても、そこに答えはない。
先生は先生の答えしか導き出せない。
しかし表現者は自分なのだ!
表現者である自らが、答えを指し示すのだ!
それが芸術である。
それ以外の何物でもない。
僕は芸術の答えを学校で学べるのかと思っていた時期がある。
しかしそれは幻想だった。
僕は昔から絵や漫画を独学で学んできたが、確信していることがある。
表現の答えは常に自分自身にあるのだと。
僕は確かにデザインの専門学校へ行ったり、人に絵を教えてもらったこともある。
しかしそこに表現の答えはなかった。
答えはほかでもない、自分の内にあったのだ!
芸術におけるただ一つの師は自然である
僕が唯一、師とするのは自然だ。
宇宙を含めた自然の完璧な構成、美しさ。
自然は芸術の極致である。
自然というこの偉大な先生を抜きにして、何を学べというのだろう?
ためしに大自然のなかに身を置いてみると良い。
広大な山野、樹木、流れる川…
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンは緑豊かな自然の中にいるとき、「交響曲第六番”田園”」が浮かんだという。
アイザック・ニュートンは田舎の故郷に戻って思索を続けていた。
すると目の前の木からリンゴが落ちた。
この出来事がきっかけで「万有引力の法則」をひらめている。
人間と同じように自然は生命である。
人の歴史よりもずっと前から存在している自然。
ずっと昔、生命は地球の海に微生物として誕生した。
それが進化発展して、いまや人が世界を支配している。
しかし基をたどれば母なる大地に、生命の起源はある。
この豊饒(ほうじょう)な自然にこそ創作のインスピレーションがあるのだ!
セザンヌも自然を師として独自の表現を編み出した
ポール・セザンヌに関する本を読んでいるとき、すごく感銘を受けたことがある。
セザンヌは絵の勉強のためにルーブル美術館に通って巨匠の模写に励んでいた時期がある。
しかしセザンヌは一歩ルーブル美術館を出ると、巨匠たちの絵は一切忘れたという。
それは結局最後は「自然を師」として学ぶことが、自分の力を一番発揮できると悟っていたからだ。
芸術の答えは自らが決めろ
僕はかつてデザイン、アート系の専門学校に通っていたことがある。
しかし芸術、表現の本質はそこにはなかった。
芸術の答えを見つけるのは他の誰でもない自分である。
しかし芸術の本質を、そのヒントをかいま見せてくれるものがある。
それが「自然」なのだ。
弟がゴッホに書いた手紙の内容を思い出してほしい。
ゴッホは絵を描くとき、対象をねじまげて、漫画のようにデフォルメをして描いた。
これはゴッホが描く対象に自らをたくしている行為だ。
ゴッホは対象に自分を投影させているから、このような描き方をしているのだと思う。
そして弟は手紙のなかで言う。
ゴッホは生き物に、つながりを感じていると。
それを絵に象徴させたのだと。
ゴッホにとって絵とは外界の忠実な再現ではない。
ゴッホにとって絵とは自らの思いを色や線、絵の全体にこめて表現することだった。
ゴッホの弟は芸術の本質に気がついていたのだ。
芸術の定義はそれぞれの人が自由に行えばよいのだ。
だれかに芸術の定義をしてもらう必要はない。
自分で芸術とはなにかを決めればいい。
それが芸術の面白さだ。
だから僕はあえてこう言おう。
芸術とは粕川(このブログの運営者)である!と。
あなたはあなたなりの芸術を定義をすればよいのだ。
ゴッホの弟の手紙の最後に
ゴッホの弟が兄に当てた手紙の内容について見てきた。
ゴッホの弟は芸術の本質を知っていたのだ。
弟テオはゴッホの絵画を見るなかで、芸術とは何かに気がついたのかもしれない。
ゴッホは自らを絵にたくして、絵画に強烈な自己を象徴させた。
このゴッホの行為が胸を打つ!
そしてゴッホのやっている事に気がついていた弟の手紙が胸を打つ!
何という感動的な兄弟だろうか!
ゴッホ兄弟は芸術の本質を語り、示し、体現していたのだ!