落語は、漫画創作のヒントにつながることをご存じだろうか?
落語には漫画を描く人が絶対に吸収すべき、創作のヒントが眠っている。
それは「笑い」と「人情」。
笑いと人情はどんなドラマを作る時にも使えるし、人間に普遍的に存在する要素だ。
この「笑い」と「人情」を、噺(はなし)という表現で芸術に昇華したのが落語。
漫画を描く人は、落語が持つ豊かな世界観を吸収し、自らの創作に活かしたほうがいい。
漫画では、ユーモアや人間ドラマの要素が描かれることが多い。
そんなとき、落語で笑いや人情話のエッセンスをつかんでいると、自作の漫画で活かすことができるだろう。
この記事では落語の魅力や、落語と漫画創作が似ている点について書いていこう。
Contents
落語とは?
落語とは、江戸時代に誕生した日本の伝統的な話芸のこと。
落語では、話の最後に「オチ」がつく特徴がある。
落語は江戸の庶民に愛されてきた、笑いの伝統芸能だ。
落語はシンプルでいて、奥深い芸術。
落語の構成は「マクラ⇒本編の物語⇒オチ」がセットで語られ、一つの演目となる。
マクラは、これから始まる物語に関係した小話をするパートのこと。
マクラは観客の緊張をほぐして、物語にスムーズに入るための役割を持つ。
落語で語られる物語は、身振り手振りや扇子などの小道具を使って表現される。
一人の落語家が、物語に登場するキャラクターを演じ分けるのだ。
落語では、落語家が話芸と身振りを使い、観客の想像力を刺激して楽しませる。
観客は落語家の話芸と身振りから物語を想像するので、文字から世界を想像する小説に近いかもしれない。
落語では舞台装置や服装、音などの演出に頼らないことが多い。
落語家の語りや身振りが、落語の世界を作っている。
そんなシンプルな落語の表現が、素晴らしいと思う。
落語で語られるのは、江戸庶民のおもしろおかしな話が多い。
なかには怪談噺や芝居噺もある。
落語のどれにも共通するのは、「笑さ」「おかしさ」「人情」「人間の業から生まれる物語」だ。
どんな人間にも、面白い部分はある。
人の性格には良い面も悪い面もあり、それが人生模様をいろどる。
落語ではそんな人間の姿を誇張して、話が語られる。
つまり、落語は人間に普遍的に存在するものを表現してるのだ。
だから落語は、長く人々に愛されてきたのだろう。
漫画も落語と同じで、人間が登場し、物語が描かれる。
人間以外が主人公の漫画でも、読者が人である以上、人情や面白さの要素はアピールするはずだ。
落語を聴いて「笑い」や「人情」「キャラクターのかけあい」などの要素を吸収する。
それを漫画創作に活かすことで、普遍的な面白さの要素を自作に与えられるかもしれない。
落語と漫画の共通点とは?
落語は、「落語家の芸と観客の想像力が補い合って物語が展開する」ところが、漫画と似てる。
例えば落語家は扇子や扇、身のこなしを使って、物語を表現する。
観客は落語家のしぐさや話から、何が起こっているかを理解する。
落語は、映画のように映像が目の前に展開されるわけではない。
でも落語は面白いし、物語が展開しているように見える。
これは落語家と観客が、想像力で物語を補完しているのだ。
漫画も落語に近いものがある。
漫画はコマや絵やセリフを使って、物語を読者に伝える。
漫画は、コマというカットの集まりで物語を見せるのだ。
そしてコマとコマの間には、飛躍が存在する。
例えば主人公が朝起きて学校に行くまでを描くとき、以下2コマの漫画で描けるだろう。
●1コマ目⇒朝、主人公が遅刻しそうになり、あわてて家の扉から出る
●2コマ目⇒パンをかじりながら学校の門に入っていく主人公
この2コマの間には、主人公の行動の飛躍がある。
主人公が学校へ向かう過程は、読者の想像力によっておぎなわれているのだ。
主人公があわてて学校へ走る姿は、漫画で描かなくても、読者の想像力にまかせればいい。
「行動の飛躍」を、読者が想像力で補完して進む漫画。
これは「演者と観客が想像力で物語を補完する」落語に似ている。
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落語に出てくるキャラクターの魅力について
漫画を描く時に欠かせない要素に、キャラクターの魅力がある
キャラクター創作や、キャラ同士の絡みを考える時に、参考になるのが落語だ。
落語に出てくるキャラクターは、個性一杯でおかしな奴が登場する。
●威勢が良い江戸っ子の大工・八五郎や熊五郎
●働き者でしっかり者のおかみさん
●頭のゆるい与太郎
●物知りな岩田のご隠居さん
●酒好きで、家賃が払えず滞納しまくる裏長屋の人々
●ケチで真面目な大旦那
これらの登場人物が、江戸を舞台に活躍する。
落語に登場する面白いキャラクターの例を紹介しよう。
「粗忽長屋」に登場する熊五郎だ。
「粗忽長屋」は、以下のような噺。
八五郎が浅草観音詣に行くと、身元が分からない男が、昨夜から行き倒れになっていた。
役人は倒れてる男の身元を調べようと、通行人に死体を見せていた。
そそっかしい八五郎は、死体を見て同じ長屋に住む熊五郎だと勘違いする。
この日の朝、八五郎は体調が悪そうな熊五郎を見かけていたのだ。
しかし行き倒れが起きたのは昨晩なので、人違いだと役人はいう。
八五郎は、熊五郎を長屋から連れてくると言い出す。
長屋に戻った八五郎は、熊五郎に向って「浅草でお前が死んでいた」という。
熊五郎は、自分は死んでいないと主張する。
熊五郎はそそっかしいので、死んだことに気づいてないだけだと八五郎は説得した。
熊五郎は八五郎のいうように、自分は死んだと勘違いする。分を肯定し、笑いに変えて人を楽しませる所にあるのだ。
熊五郎は、八五郎と浅草の行き倒れの現場へ行き、自分の死体を引き取ろうとする。
行き倒れの人の顔を見た熊五郎は、まちがいなく自分の死体だといいはる。
「熊五郎の死体なわけがない」と周りが言っても、熊五郎は聞く耳をもたない。
熊五郎は役人が止めるのもさえぎって、死体を持ち帰ろうとする。
死体の件で役人と言い合う熊五郎は、ある瞬間に気がつく。
「死体を抱いているのは確かに俺だけど、抱いている俺は一体誰?」
このように、「粗忽長屋」は熊五郎の勘違いがナンセンスで面白い。
現実では考えられない勘違い、性格の誇張、とびぬけたマヌケさなどの面白い要素が、落語では楽しめる。
落語に登場するキャラクターの面白さは、人間の持つ業や性格を誇張することで生まれているのだ。
例えば
●奥さんに生活が厳しいから酒をやめろと言われているのに、口約束だけして、酒をやめられない男
●真面目な性格を誇張して、何に対しても小言を言い、ケチる性格の大旦那
●ぼけ~っとしてマヌケな与太郎
●知ったかぶりやウソつきなキャラクター
落語のように人間の業や特徴的な性格を誇張するから、面白いキャラクターになるのだ。
これは漫画でキャラクターを作る時の参考になるだろう。
上にあげたキャラクターは、一般社会から見たら、マイナスの印象を与えるかもしれない。
しかし落語の魅力は、人間の負の部分を肯定し、笑いに変えて人を楽しませる所にある。
落語では、楽しみつつ人としての道理が身につくような物語がたくさんある。
愉快なキャラクターと、物語の裏にあるメッセージ性。
この要素は、漫画創作で使える要素だ。
漫画家の手塚治虫氏や赤塚不二夫氏も、落語をたくさん聴いていたことで有名。
両者の漫画には、落語の要素が見てとれる。
手塚治虫氏は漫画のアイデアを出すとき、「落語の三大噺」を参考にしていると語ったこともあるのだ。
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落語を研究して面白さの源泉をつきとめよう!
落語は江戸時代から日本の伝統芸として多くの人々を楽しませてきた。
これは落語の中には、人々を魅了する普遍的な面白さが眠っているということだ。
このような落語の世界を、漫画描きが吸収しないのはもったいない。
漫画を描くときに落語は関係ないから聞く必要がないというのは、狭い考え方だ。
素晴らしい作品を生み出そうと思うなら、名作がいかに構成され人に感動を与えているかを、あらゆるジャンルから探っていく必要がある。
例えば音楽を聴いて感じる情緒、落語家が話すしゃべりの間、映画における音楽と映像の融合などだ。
漫画と落語は違う表現だが、共通する部分はある。
例えば「粗忽長屋」でみせた熊五郎の「勘違い」は、漫画で別のキャラクターとして使うことができるだろう。
頭がゆるすぎて、死んだ人を自分のことだと勘違いするキャラクターが熊五郎だ。
それなら、「頭がゆるすぎて、自分の名前を忘れてしまうキャラクター」という風にアイデアをずらして漫画で使うことができる。
落語には、漫画創作で使える面白さがつまっている。
漫画を描く人は落語を聴いて、普遍的な面白さの本質をつかもう!
古典落語と新作落語の違い
落語には、主に以下2種類がある。
●古典落語⇒江戸時代から明治にかけて作られた落語の演目
●新作落語⇒大正時代以降に作られた落語の演目
古典落語と新作落語を分けるのは、落語が作られた時期の違いにある。
粕川がおすすめする落語は、古典落語!
落語の演目はこれまでたくさん作られたけど、今でも高座でかけられる有名な演目は限られている。
古典落語と新作落語を分ける違いは、古典落語が「江戸時代の生活、文化、人々を描いている」点にある。
古典落語は、物語の舞台がほぼ全て江戸時代。
江戸時代に作られた落語の中から、現代にいたるまで愛され残った作品が古典落語なのだ。
なので古典落語の名作には、時代に左右されない普遍的な面白さ、人情話がつまっている。
漫画描きは、これを吸収するのだ。
今の時代にマッチした面白さを身につけるのも重要だ。
しかし流行を追った面白さは、その時代が過ぎると古くなる弱点がある。
昔の流行歌などはその典型だ。
いま昭和の流行歌を聴くと、どうしても古さを感じてしまう。
しかし時代に左右されない面白さは存在する。
その代表が古典落語で語られる、人間の普遍的な感情に根ざした「笑い」や「人情」だ。
古典落語の普遍的要素を取り入れることで、自作漫画にも古びない面白さを吸収することができるだろう。
漫画描きは流行を追いながらも、普遍的な面白さにもアンテナを張り、自作に取り入れていこう。
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古典落語から感じる個性の大切さ
古典落語の有名な演目は、いろんな落語家が高座で披露する。
落語は同じ演目でも、落語家によって演じ方が違うので、飽きずに楽しめる。
ときには落語家のアドリブで、話の内容が変わることもある。
同じ演目でも演じる落語家が違うと、印象の違った話になることもあるのだ。
だから落語は同じ話を、何度でも楽しめる。
落語を聴く人は、すでに演目の物語展開を知っている人も多い。
噺の内容が分かっているのに何度聞いても面白い落語…これは凄いこと。
同じ内容の物語でも、語り手が違うだけで新しい面白さに変えることができるのだ。
これは、クラシック音楽に似ている。
クラシック音楽は、同じ曲でも演奏するオーケストラや指揮者が違うだけで、違った印象の曲になったりする。
五代目・古今亭志ん生が語る「鰻の幇間」と、八代目・桂文楽が語る「鰻の幇間」はどちらも面白いけど、面白さの質は異なる。
両者の語る「鰻の幇間」の面白さの違いとは、「落語家の個性の違い」である。
同じ話でも、演じる人の個性が違った魅力を持たせてくれる。
ここから分かるのは、漫画描きの個性が大切ということ。
同じ内容の物語でも、それを描く漫画家の個性によって、違う面白さを描くことができるのだ。
最後に
落語には、普遍的な面白さや人情物語がつまっている。
漫画描きは落語の名作から、普遍的に人を楽しませる要素を吸収することができるだろう。
僕自身、落語から漫画創作のヒントをたくさん発見できた。
人間の業から出る性格を誇張して、ナンセンスにつなげる創作は、落語から発見したのだ。
最後に筆者が、心から愛する落語家3人を挙げてみよう。
僕はこれまで様々な落語家の話を聴いてきたけど、永遠に忘れられない不滅の三人がいる。
1位⇒五代目・古今亭志ん生
2位⇒五代目・柳家小さん
3位⇒八代目・桂文楽
特に五代目・古今亭志ん生はその生き様を含めて、伝説の落語家だと感じる。
落語の演目は誰が演じたかで内容の質が変わるので、一概にこれが良いとは言えない。
しかし、以下の噺はとても面白いと思った。
●船徳
●寝床
●堪忍袋
●鰻の幇間
以下の噺は、人情話の傑作だ。
●芝浜
●子別れ
●文七元結
落語は同じ噺でも、演じる落語家によって風味が違うところが面白い。
気に入った噺があったら、他の落語家が同じ噺をどう演じているかを聴く楽しみがある。
そんな落語を聴いて、漫画創作のヒントを吸収してみよう!