今回はマンガアート芸術家の僕が、死への恐怖が全くない理由を書いてみます。
むしろ「死」は歓喜じゃないかと思うくらいです。
ここで語ることは僕の宇宙観、死生観なので、科学的裏付けはありません。
しかし僕の世界では、このようになっているのです!
それではいってみましょう♪
死への恐怖がないスピリチュアル大好きみりんちゃんの証言
前後の「もっとがんばれ!バカオくん」は以下リンクに~
死への恐怖が全くない理由を表現者が語る
ボクが死への恐怖がまったくない理由は、宇宙的視点から物事をみるからです。
つまりボクという存在の本質は、「意識」だということに気づいてるからです。
僕は昔自分を、人間という物体だと思ってました。
しかしそれは一時の夢の中だけの話だと、気づいたんです。
「ただ一つの意識」だけがあります。
この「ただ一つの意識」から、宇宙のすべてが生まれました。
「ひとつの意識」は自分自身を体験するために人間の体をまとい、地球へ一定期間遊びに来ている状態なんです。
意識が自分だとしたら、肉体は車みたいなもの。
「肉体という車で、自分という個性体を楽しんでいる」…それが人生なんですね。
車が古くなり動かなくなれば、その車から離れますよね。
それが「死」です。
車を降りても自分は生きてるじゃないですか。
それと同じで、肉体を離れても意識は消えないんですよ。
意識は不滅なんです。
人間として生きてると、肉体が自分だと錯覚してしまう。
だから死が怖くなる。
でもですね死ぬと肉体を離れて「すべてである一つの意識」に戻るだけなんです。
「すべてである一つの意識」 っていうのは、もう想像を絶するような充足の状態なんですね。
人間のころに体験するどんなことよりも、はるかに大きな愛に包まれる。
実はこの現実世界で生きてる時も、「完璧な充足領域」のなかにいるんですよ。
それに気づいてないだけで。
死んだ後の世界は、望んだことがその瞬間に体験できる世界です。
僕がこのブログでよく書く「既にある」状態が、あっちの世界では常識になるんです。
もちろんこの現実世界でも「既にある」は真理です。
ただ肉体という物理次元にいるので、現象化するまでに「タイムラグ」という幻想を知覚してしまう。
僕は「タイムラグ」は、ないととらえます。
なぜなら時間は存在しないから。
「望んだことが叶うまでにタイムラグがある」と、人間が解釈してるだけです。
実際には意図したその瞬間に、その人は望んだ存在そのものといえます。
僕は思うんですが「現実を生きてる今」こそが夢であり、死んだ後に行くあっちの世界が通常の状態なんですよ。
「死」を怖いものとして教えこまれてるんですね。
自分という意識が消えて、なにもかも消滅することを「死」というなら、そんな「死」は存在しません。
なぜなら「魂(意識)」は不滅だから。
「自分がここにいる」と知覚している「意識」、これこそが本当の自分です。
そしてこの「意識」が、宇宙をふくむ全てです。
「個」であり同時に「全部」である状態が、あっちの世界では常識なんです。
僕は最近、祖父が亡くなりました。
しかし僕は祖父が死んだとは思ってません。
目には見えないけど、祖父とは会いたい時にいつでも会えるということが腑に落ちてるからです。
祖父の実態であるエネルギー(魂)とは、僕が意識を向ければいつでも会えるとわかるからです。
祖父だと思っていた肉体は一時の夢なんですね。
祖父の実態は肉体ではない。
「祖父の意識」の方が本体なんです。
宇宙的視点でみれば「祖父の意識」も「僕の意識」も一つなので、「分離」がない状態です。
こういう宇宙的視点でみるようになってから、人間世界でいわれる「死」のとらえ方がだいぶ変わりました。
人間世界では「死」は悲しいことととらえる。
でも僕は「死」が実は、人生を生ききった後に行ける最大のごほうびだと感じます。
肉体という五感は制限そのものなので、いろいろ荷を背負いやすいですね。
例えば重力とか、食欲などの欲望、喜怒哀楽などは荷といえます。
こういうのは肉体があるから感じること。
死ぬと肉体という幻想から解放されるから、重荷が全部なくなる。
僕がこのブログでよく書く「完璧な充足状態」になるんです。
願ったことが瞬時に叶う領域になるんですね。
制限ばかりの肉体によるゲームも楽しいですが、やっぱり僕は死後の世界のほうが通常だと感じます。
肉体の制限ゲームは、一時的なもので十分ですね。
死んだ後も生きていた時の記憶は、すべて残りますからね。
個体だった自分が、全ての存在と一つに溶け合うんです。
だから何も失うものはないし、喜怒哀楽からも解放される。
失ったと思っていた肉体や財産、物品などは、夢の中にあった幻だったんです。
向こう(死後の世界)の方が僕的にはよっぽど良い状態ですね。
ただし、自殺はいけません!
僕たちは自分が選んだ肉体&個性で人間を体験する目的でここへ来てるからです。
自らの選択で死を選ぶというのは、ゲームを強制終了するようなもので、なんの解決にもなりません。
「体験」が目的なんです。
だからどんなことでも味わえばいい。
物事に良いも悪いもないので。
幸せに生きたければ、自分の意図一つでいつでも幸せになれますよ。
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死ぬ瞬間の恐怖や生まれ変わりについて
死ぬときは痛いから怖いと思いますよね。
それは僕も感じました。
でも臨死体験者の本や証言を聞く中で、そこら辺の恐怖も消えましたね。
例えば苦しい死に方をする場合、溺れるとかにしましょうか。
苦しみを感じるのはほんの90秒くらいみたいな証言がありました。
それ以降は魂が肉体から離れて、死にゆく自分の姿を見てるような状態になるそうです。
意識は変わらずあるので、「自分が死んだことに気づかない」くらいなんだそうですね。
肉体から魂が離れる時は、すっごく気持ちよいらしいです。
そりゃあそうですよ。
苦しみを感じさせるのは「肉体の五感」だから。
肉体から離れるってことは「苦しみ」から解放されて、「完璧な充足状態」に入るわけなので、気持ち良いと思います。
死ぬその瞬間は怖く感じられますが、ふわっと浮き上がるように肉体から離れるだけなんだなと、僕は安心を感じました。
肉体を離れた後に上へ向かうと、もう表現しようのないほど美しい領域があるみたいです。
人によってはこれを三途の川というのでしょう。
向こう側には光る存在が嬉しそうに自分を迎えようとしてくれている。
神々しい向こう側へ行くと、もうホントの死になってしまうんでしょうね。
でも向こう側に行かなければ、自分の肉体に戻れることもあるみたいです。
臨死体験者は「向こう側」に行かなかった人たちなんでしょう。
こういう証言をみていく中で、あらためて思いました。
死はぜんぜん怖くない。
むしろ人生を最後まで生ききった後に体験できる、最大のごほうびなんだと思います。
人間は生まれる前に「だいたいどんな人生を生きるか流れを決めてくる」みたいですね。
その目的に沿って自分の肉体、個性、性格、親、まわりの人間関係、特技などを自ら選んでくるそうです。
ほんとにゲーム感覚じゃないですかw
自らが決めてきた目的を果たした後に、死を経て元の場所へ戻っていく。
元の場所というのが「完璧な充足領域」なわけです。
この世のどんな快楽よりも、比べものにならないくらい大きな充足状態にずっといることになるんですね。
「死ってむしろ歓喜じゃん!」と僕は思うに至りました。
完璧な充足状態にずっといると飽きてくるから、またタイミングをみて「体験」をしに生まれ変わるみたいです。
しかし過去、未来という時間は幻想なので、「過去から未来の時間軸で生まれ変わる」という認識は違うみたいですね。
「過去も未来も今この瞬間にすべてが同時に存在する」というのが本来の状態。
だから過去でも未来でも好きな場所、時代へ「体験」しに行けるみたいです。
こういうことが頭に入ると、人間世界でいわれる死の恐怖に動じなくなります。
ちなみに「天国」も「地獄」も存在しないそうですね。
天国や地獄は、人間が作った概念です。
死んだ本人が「天国」や「地獄」があると思えば、その認識にそって体験することはできますよ。
でも天国や地獄という場所があるわけではない。
空間や時間、「自分以外の何か」という人間世界での尺度は、あっちの世界では通用しないんですね。
それらは肉体を持つために知覚される幻想の認識だからです。
本来は分離など存在しない。
全ては一つ。
自分が宇宙そのものであり、人間世界での体験を作り出していた張本人。
死とは一時の夢からさめて、完璧な歓喜の領域に戻れる、最高のプレゼントだと感じました。
人生をマラソンに例えるなら、死は「苦しいマラソンから解放される」ゴールテープだったんですね。
死は生きてる時よりもはるかに幸せな領域に戻れる体験なので、もう歓喜としか僕には思えないんです。
とはいえ今生きてる人生をめいいっぱい楽しむことがなにより大切ですね。
「楽しく人生を生きたら、もっと嬉しい場所に戻っていける」みたいな感覚でいるのが良いと思います。
そうすると死も怖くないから、人生をもっと楽しめるでしょう。
僕はそんなことから、最近よく臨死体験の本を読んでます。
以下の本を読むのは2度目です。
死後の世界に興味のある方には非常に興味深いことが書かれているおすすめ本ですよ♪
前後の「もっとがんばれ!バカオくん」は以下リンクに~
このような死生観を持つに至った理由は、以下の記事に書いてある認識の変更にもあります。
興味のある方は以下リンクからどうぞ♪