漫画アート芸術家の筆者は、絵を独学で学んできた。
ここでは筆者が絵を独学で勉強してきた当時のことについて書いていこう。
筆者は絵を独学することで、絵に対する独特な概念をもつことになった。
独特な絵に対する概念?なにを絵の独学で発見したんだ?
僕は18歳のときにアートと出会い、絵画という表現手段を手に入れた。
それまで下手のよこ好きで漫画を描いてた所に、芸術という新たな要素が加わったのだ。
それまで僕は本格的に絵を描いたことがほとんどなかった。
絵の勉強をしていないので、落書きみたいな漫画を描いていた。
以下は筆者が10歳の時に描いていた漫画の画像。
しかしアートと出会って、変わった。
本気で絵画を作りたいと思ったので、絵も基礎からやり直そうと考えたのだ。
ここから筆者の絵の独学が始まる。
筆者がアートと出会った後に、絵の独学として初めに描いたデッサンが以下の画像だ。
絵を描く人は、若い頃から専門的な教育を受けている人もいる。
それに比べれば僕の場合、絵を学びだしたのが遅い部類に入るだろう。
ではそんな僕がどのようにして絵を独学したのか?
以下より筆者が絵を独学するときに発見した、独特な考え方について見ていこう!
絵を独学して分かったこと
漫画を7歳のころ描きだした時も、絵画を学んだときも、僕は独学だった。
絵画でも漫画でも、表現を学ぶときに答えはない。
表現は誰かに教えてもらうものではないのだ。
誰かに自分の表現の答えを教えてもらおうとしている限り、見つかることはないだろう。
なぜか?
何を表現すれば良いかを知っているのは、自分をおいて他にないからだ。
あなたは自分が何を創造したらいいか、迷ったことはないだろうか?
先生を見つけて、その人に描くべき答えを教えてもらおうとしていないだろうか?
しかし表現は、数学ではないことを知ってほしい。
「1+1=2」は、数学の決まりごとだ。
しかし表現においては、必ずしもそうならない。
表現においては1+1=「向こうから巨大化した猫が納豆星人と一緒にやってきたー!」
という現象が起こりえる世界である。
何が言いたいかというと、表現の答えは人の数だけ存在するということ。
「表現とは何か?」の答えに対して外れた見方をしても、個性としてみられる世界だ。
長い間学校教育を受けてきた僕たちにとって、周りと外れた思考をすることにとまどいを感じるかもしれない。
しかし表現するとは、自分自身を強烈に打ち出すことに他ならない。
表現をする時、他の人と違えば違うほど、個性は浮きぼりになる。
そして個性こそ、表現における最大の武器である。
だから表現者は、自身の在り方を作品で強烈に打ち出すのだ。
もし自分に個性なんてないと思ったら、それがすでに個性である。
尖ったところのない平安な要素があるなら、それを打ち出せばいい。
どんなパーソナリティでも、真実の自身を表現する。
その手段が絵画や漫画創作であると、僕は絵の独学をして感じた。
なので絵を描くとき、先生について教わろうとは考えなかった。
絵は独学で学べると思ったのだ。
しかし僕の中で、先生と決めた人たちはいた。
それがファンゴッホであり、ミケランジェロやジョンレノンたちだった。
上に挙げた人物は、自身のパーソナリティーを作品を通して強烈に表現している。
そして作品が素晴らしく、永遠性がある。
表現するジャンルは関係ない。
自分という存在を永遠性を持つ作品で表現できる人は、絵の先生と呼べるのだ。
ジャンルが違っても、絵を独学する時の参考になることはある。
だから絵を独学するなら、上に挙げた人物たちから学ぼうと考えた。
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絵の描き方の教則本で独学を始めた
僕は絵の描き方に関する本を読んで、独学で絵を描きだした。
当時絵の描き方の本は、図書館で借りて独学をした。
有名な芸術家たちが、どんな風にキャリアを作っていったかも研究した。
例えば革新的な表現を生み出したファンゴッホやセザンヌたちは、自分のスタイルを確立する以前にたくさんのデッサンを描いている。
僕は絵の独学をしようと思ったとき、無性にデッサンをしたい衝動に駆られた。
絵の独学といえば、木炭で彫刻を描くようなデッサンに憧れていたのかもしれない。
敬愛する芸術家がたくさんデッサンをしていた事を知って、僕も夢中になって絵を描いた。
当時の僕は闇雲に絵を描いていた。
しかし闇雲に絵を描きまくる時期も大切である。
絵は描くことで観察力や、見たものを絵に表す描写力を鍛えられる。
その上でデッサン教則本などの知識、技法を取り入れていくのだ。
描く量は、やがて質に転化する。
もったいぶって描かないというのは、間違いである。
絵を描くことが好きなら、あたりかまわず一切を描くつもりで紙に向かうのだ。
自分の目が捉えたもの全てを描く意識を持つのだ。
絵を描き、描く中で考え、描くことで自分を表現する。
それが、芸術家じゃないか。
僕は上のような考えで、絵の独学を始めた。
石膏を描いたり、身近なものを描いたり、有名画家の絵の模写をしたりもした。
筆者の描くデッサンは、本格的にデッサンをしている人にとっては描き方が甘いかもしれない。
しかし絵の独学をする時は、自分が楽しんで描けてるかどうかが重要だ。
周りの基準に合わせなくても、自分が楽しみながらデッサンをすればよいのだ。
色々なものを描くことで、対象を描き分けるコツがつかめてくる。
色々な絵を描くと、自分がどういう傾向の絵が得意なのかが分かってくる。
僕もたくさん描く中で、自分が表現したいものが何かに気が付いた。
18才の時に描いたデッサンの中から、印象深い一枚をご紹介しよう。
ゴッホの絵を模写して気が付いた発見
上の絵は、ファンゴッホが描いたデッサンを模写したもの。
ゴッホは上の絵を、デッサンと油絵で描いている。
昔から上の絵が好きで、どういう意図で描かれたのかを探りたくて僕も描いてみることにした。
すると自分が描きたい絵の方向性が発見できた。
それは、人間の魂を描きたいという事だった。
悲しみに打ちひしがれるおじいさんの絵の、どこが気に入ったのか?
それは迫真の感情表現にある。
悲しみをこれほどストレートに表現した絵も、中々ないのではないか。
悲しみが好きだというわけじゃない。
僕は楽しいことが好きだし、幸福に生きようと思う。
しかしゴッホが描いた上の絵がかもし出す、偽りない感情表現に心を打たれた。
ゴッホは周りの人たちに理解されず、経済的苦境のなかで精神を病んだ芸術家だ。
苦悩の人生を生きる中で、一つの表現として悲しむおじいさんの絵を描いたのかもしれない。
しかし僕は以下のように感じている。
ゴッホは幸福な芸術家であったと。
なぜなら芸術家にとって最も幸福なことは、揺るぎない個性を確立し、永遠な作品をたくさん作ることにあると思うからだ。
悲しみに打ちひしがれるおじいさんの絵は、感情表現があまりにストレートすぎて胸を打つ。
自分が感動した絵を模写してみると、意外な発見があるかもしれない。
筆者はこのようにして、絵の独学をしていった。
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絵の独学をして気が付いた発見~人生全体が作品
筆者は絵の独学をすることで、作品に対する概念が変わった。
デッサンもスケッチも落書きも含めて、描く全ての絵が、表現者の足跡である。
完成した絵だけが、作品なのではない。
完成作品を作るために描いたクロッキーやスケッチ、落書きなども作品なのだ。
完成作品を作るための土台となった絵だから、作品の一部に含まれるのだ。
僕は作品というものを大きな視点でとらえる。
表現者が生きた人生の軌跡全体が、作品である。
なぜなら絵はただ紙に描かれたものだけでなく、それを描いた人間の物語、人生全体を含むものと考えるからだ。
作者の人生や思いを見ずに、ただ絵だけを描いていたのでは、芸術としての絵は完結しない。
●誰がどういう思いで、なぜそれを表現したのか?
●それを生み出すに至った人生の軌跡は何か?
これら全てが絵に説得力を持たせ、何がしかの価値を与える。
揺るぎないあなたの思いを含めて、絵を制作する必要がある。
目をつぶりながら感覚に任せて描いた絵だって、立派に作品である。
どんな小さなスケッチも大切にとっておき、最終的にあなたの軌跡として一堂に集めるのだ。
表現者の人生や描いたあらゆる絵が、作品だ。
筆者は絵を独学するなかで、上のような思いを持つに至った。
筆者はいろいろな表現者の伝記や作品などを観ていたので、変わった作品に対する概念ができたのだと思う。
どんな些細な絵も、完成作品と同等の立ち位置にある。
生きてきた人生全体が、表現者のアートそのものなのだ。
絵を独学した体験の最後に
筆者は絵を独学で学び、描いてきた。
絵のテクニック的なことは、図書館においてある本に書かれている。
筆者は本や先人たちの活動を通して、絵の独学をしてきたのだ。
しかし、だれもが絵を独学すればいいというわけではない。
僕にとっては絵を独学するのが最善だったけど、先生に教えてもらった方が良い人もいる。
絵の先生から教えてもらえば、効率的に絵の描き方がわかるかもしれない。
しかし表現の最終的な答えは、自分の内にあるのだ。
あなたが何を描くべきかを知っている人は、いない。
そこはしっかり自分と向き合い、確かな答えを導きだすしかない。
今日もブログをご覧いただきまことにありがとうございます!