自己の内面を強烈に絵で表現した画家に、ハイム・スーチンがいる。
スーチンの描く風景は激しく曲がり、歪んでいる。
スーチンの描く人物は奇妙なデフォルメを施されて、ちょっと漫画のようにも感じられる。
僕はスーチンの絵を見ているとファン・ゴッホを思い出してしまう。
しかしスーチンの絵はゴッホ以上に、内的な感覚を絵にぶちまけたという感じがする。
スーチンの絵には強烈な個性がある。
僕は昔からハイム・スーチンの絵画が大好きだった。
それは自らの魂の告白を絵画を通して、生々しく行った人だと感じたからだ。
画家は自らを絵画の中で表現するのだ。
日本ではそれほど知名度は高くないのが不思議なくらいスーチンは良い絵を描いている。
芸術家の魂を強烈に表明するような画家がいる。
例えばゴッホやゴーギャン、ピカソ、ポロック、バスキア達が好きな方に向けて、僕が何としても知ってほしいハイム・スーチンの人生や絵画について書いていこう。
Contents
ハイム・スーチンとは
ハイム・スーチン(1893年1月13日~1943年8月9日)はロシアに生まれ、主にフランスのパリで画家として活躍した。
主に20世紀前半に活動をしており、美術史的にはエコール・ド・パリに属する。
エコール・ド・パリとは「パリ派」という意味を表わし、20世紀前半に世界中から集まってきた芸術家達のことを差す。
アメデオ・モディリアーニやマルク・シャガールは代表的なエコール・ド・パリの画家だ。
スーチンの絵は見ると分かるようにギトギトした情念のようなものを感じる。
なぜそのような絵画をスーチンは描いたのか?
まずはスーチンの生い立ちに迫ってみよう。
スーチンの生い立ち
1893年スーチンは11人も兄弟がいるユダヤ人家庭の10番目の息子として生まれた。
なんという子だくさんだろう!
家は貧乏でスーチンは体も弱かったので兄弟から邪魔者扱いをされていた。
そんな中で絵を描きだしたスーチンは、貧困や宗教的なルールから絵を描くことを禁じられてしまう。
1910年、どうしても絵を描きたいスーチンは実家を飛び出してリトアニアの美術学校に行くのだった。
パリで盟友モディリアーニと出会うスーチン
やがてスーチンはフランスのパリに出てきて画家活動を始めるようになる。
フェルナン・コルモンのアトリエではエミール・ベルナールに絵を教えてもらう。ベルナールと言えばかつてゴッホやゴーギャンと親交のあった画家である。
スーチンのいた「蜂の巣(ラ・リューシュ)」と呼ばれる集団アトリエにはマルク・シャガールやフェルナン・レジェなど後に巨匠となる画家も学んでいた。
ここでスーチンはアメデオ・モディリアーニとの出会いを果たす。
モディリアーニと言えば面長な人物像を描くあの伝説の男だ。
僕もアメデオ・モディリアーニはあきれる程好きだ。
9歳年上のモディリアーニはワイルドな性質を持つスーチンと気が合い、スーチンの肖像画を3枚残している。
当時のスーチンは絵が売れないどころか「汚し屋」(キャンバスを汚したような絵という意味だろう)と呼ばれていた。
モディリアーニはスーチンの中に光る才能を見つけたのだろう、知り合いの画商の元へ連れて行き、スーチンの絵画の魅力を説明した上で買わせたと言われている。
しかしスーチンはその後も絵はあまり売れず生活は貧しかった。
スーチンの作風に変化が現れる
1920年にモディリアーニが亡くなると元々内向的だったスーチンは、パリの喧騒を離れて南フランスのセレという場所に落ち着く。
ここで制作した一連の風景画は内面の不安を感じさせるように激しくうねり狂っている。
スーチンはレンブラントを高く評価していたようで、他にもゴッホやセザンヌなど様々な画家の影響を取り入れた末に、独自の画風を作り出している。
スーチンの絵を見ていると様々な画家の勉強をした末にオリジナルな作風を生み出したんだなと感じる。
かつてファン・ゴッホはレンブラントを敬愛し、「ユダヤの花嫁」という絵の前であまりの感動のために動けなくなった。
「もうあと一週間この絵を見ていられるなら寿命を10年縮めても構わない」というような事を語ったという。
実はスーチンもレンブラントの「ユダヤの花嫁」が好きだったようで、その作品の前で感動のために立ち尽くしたという。
僕は人間の真理や不安、苦悩を激しいタッチで絵画にしたスーチンに、ゴッホとの共通点を感じてしまう。
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スーチンに成功が訪れる
ここではっきりさせたいのはスーチンは画家として大成功を収めたという事だ。
有名な画家にはファン・ゴッホやモディリアーニのように認められなかったり病気のために自殺、早逝している人も多い。
スーチンは幸いなことに画家としての大成功を収めている。
1923年アメリカの一大絵画コレクターであるアルバート・C・バーンズは画廊にてスーチンの絵画を見て感動し、画廊にあるスーチンの絵画を皆購入したという。
その時バーンズが発した言葉がこれ。
「スーチンはゴッホよりもはるかに重要な画家である」
確かにスーチンの絵画の持つパワーは凄まじく、ファン・ゴッホに間違いなく匹敵すると僕も思う。
スーチンの作品はアメリカで飾られて衝撃を与えると、その勢いはフランスにも伝わり評価が一気に高まった。
これがきっかけでスーチンの絵が売れだしてからは、豪邸に住んだり運転手付きの車に乗る生活をしたスーチン。
ものすごい変わりようだなスーチン!
しかし当のスーチンは気難しさが災いしてか自らの絵をコレクターや美術館から取り戻し、びりびりに破いてしまう。
それどころか晩年は貧乏に逆戻りし、1933年以降は絵画制作さえほとんどしなくなる。
1940年と言えばナチスドイツがフランスを陥落させた年。
ナチスのユダヤ人排斥を恐れたスーチンは、フランスの村々に退避している内に体を病み、持病の胃潰瘍が原因で1943年に亡くなっている。
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スーチン絵画の作風
スーチンは人物、風景、静物など何でも描く画家だ。
そしてどの絵にもスーチンの内面的な心の告白がつづられている。
絵具はギトギトした大胆なタッチで荒れ狂うように塗られている。
ファン・ゴッホのような輝く色彩ではなく、どことない濁りを感じさせる。
僕はこの色調にスーチンという人間の本音を感じてしまう。
またスーチンはコックやボーイなどの労働者を好んで描き、静物画では動物の死骸を描いた。
スーチンは生まれが貧しかったのでこれらのモチーフに何らかの共感を抱いていたのかもしれない。
スーチンの作品には差別や貧困にあえぐ人々の焦燥感、苦悩が表現されている。
ここにはスーチンがユダヤ人であるが故の思いが込められている。
スーチンはかつて自分の絵は未完成だと言った。
スーチンの絵画には彼が内面に抱える不安、孤独、未完成感などの心の叫びがあり、それを共感を持つ労働者や風景、動物の死骸などのモチーフに託して描いたのだ。
画家スーチンのまとめ
スーチンは経済的成功を収めてからもアウトサイダーであり続けた。
晩年は靴を一足しか持っていなかったと言われるほどの極貧に陥ったスーチン。
成功の栄華に恵まれながらも、自分の世界を描き続けたスーチン絵画の魅力は何なのか?
それはスーチンが貧しいユダヤ人家庭に生まれ、その血筋から来る屈折した思い、人生を生きる中で感じる様々な叫びを絵画という形で表現したことにある。
スーチンの絵画は「魂の告白」だ。
かつてドストエフスキーが、ファン・ゴッホが表現したように、自らを芸術に託して表明した男。
それがハイム・スーチンなのだ。
僕もハイム・スーチンのように絵画を通して自らを語りたいと思う。