絵画の習作は単なる練習台ではない。
習作は完成作を支えるために必要な道程である。
だから絵画の習作とは完成作を支える作品なのだ。
そんなことを思ったのでこの記事を書いてみる。
僕は一つの絵画を作るとき、たくさん習作を重ねる。
上に掲載した絵は「幻想の森」の習作である。
ところで
習作ってどういう意味?
「完成作を作る前の単なる練習台でしょ」
と思ったあなた。
習作は確かに完成作の前段階に行う練習ではある。
しかし実際はそれ以上の意味を絵画の習作は秘めている。
習作を行う中で絵は方向性を見出す。
習作が思いもしなかったアイデアを指し示す。
習作はそれ自体が作品となりうるのだ。
僕は今日、絵画の習作についての新たな概念を提示しよう。
絵画の習作とは何か?
習作→「芸術の分野で練習のために作られる作品全般をさす名称」
~wikipediaより
例えばあなたに絵のアイデアが浮かんで、それを描こうとしたとしよう。
するとまず習作として何枚か絵を描くかもしれない。
この場合の習作とは完成作品を見越して練習台として描くという風に捉えるだろう。
確かにそうだ。
絵を描くとき、本番前の練習として習作を重ねることで自信がつく。
しかし本番の絵画のみが作品で習作は意味がないと捉えるのはもったいない。
僕は言おう。
習作も作品であると。
いや、絵画の習作は完成作品を構成する大切な要素なのだ。
作品を完成された一枚の絵とだけ捉えてしまうと、それ以外の価値が分からなくなる。
しかし実際のところ、絵画作品とはそれが完成されるまでに費やされた全過程である。
例えば愛というテーマで絵を描くとする。
完成した一枚の絵にたどり着くまでに描かれた習作は作品の一部である。
なぜなら習作という過程を経て完成作が出来るからだ。
何かを考えるとき、一歩引いてみると全体像が分かりやすくなる。
引いて客観的に見ることで作品の概念を捉え直せることもある。
そんなふうに一歩引いて見たとき絵画の習作は練習台ではなく、完成作をささえる大切な要素だと分かってくる。
絵画の習作の前に表現者自体が作品
芸術家それ自体がすでに作品である。
芸術家は自己の感覚に従って何かを生み出す。
表現者とその人生がすでに芸術だ。
表現者が生きてきた歩み、人柄、行動の全てが作品といえる。
そんな表現者が一つの絵画を描こうとした。
彼は素晴らしい完成作を作るため、練習として習作をたくさん制作する。
この習作は完成作品と結びついている。
習作から完成作という流れ全体が、一つのテーマを持った作品である。
完成作が出来るまでの一連の流れが、すでに表現なのだ。
完成作に至る過程を記した習作。
だから習作は立派な作品の一部だ。
習作は単に練習台のためにだけあるんじゃない。
発想されたアイデアから絵画の完成に至るまでの全体。
これが作品であり、あるテーマのもとに関連付けられた絵なのだ。
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100枚の習作から1枚の傑作が生まれる?
「100枚の習作から1枚の傑作が生まれる」
極端なことを言うが、意識として僕はこう捉えている。
傑作を作ろうと思ったとしよう。
傑作と呼ばれるからにはよっぽど素晴らしいものじゃないとマズイなんて思うかもしれない。
その意識に邪魔されて結局いつまでたっても描き始められないという人もいる。
しかし実際のところ、傑作は流れの中から生まれるのだ。
流れとは制作、創造の流れである。
エネルギーは創作をする中から生まれる。
何も作っていない人がいきなりポンッと傑作を飛ばしたりはしない。
いたとしても一発屋で終わるだろう。
良い作品は創造の熱気にまぎれこむのだ。
あらゆるものを描き、描くなかで考え、方向性を見出す。
創作する行為に没頭し、そこからのみ生まれるひらめきがある。
傑作をものにするのは、火のように制作に励む人間だ。
僕はよくこの方達の話を持ち出すけど、ファン・ゴッホやピカソが良い例である。
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彼らは描くことを使命とし、描くなかで自分を表現した。
だから作品数も半端じゃない。
ゴッホはたった10年に満たない画家活動期間の中で油絵、デッサンを含め約3000点近くの制作を行った。
ピカソにおいては91歳の生涯で制作した作品数(陶器、彫刻、版画、デッサンなど全部含め)10万点を超えている。
これらの事実は何を語っているのだろうか?
「量はやがて質に転化する」ということである。
習作の量が質に転化し、傑作を生み出しているということ。
それに比してレオナルド・ダ・ヴィンチという人は描くのがとても遅く、描いても途中で放棄したりするので真作はたった11枚ほど。
どちらが正しいというわけではない。
画家としてのタイプの違いだ。
僕は明らかにゴッホやピカソタイプに属している。
どういうわけか異常にたくさん生み出したい欲求に駆られるのだ。
僕は一枚の絵を一か月かけて描くなら、一か月のうちに30枚の絵を仕上げたいタイプだ。
もちろんゆっくり時間をかけて描く絵もある。
しかしそんな時でも一方では即興で仕上げる絵も同時進行で進めている。
たくさんの絵を同時進行的に進めて描くのが好きなのだ。
色々な作品を手掛けることで脳も活性化し、やる気が湧いてくる。
創造を行うからエネルギーが湧く。
創造行為そのものがパワーを生み出す根源だ。
もしイマイチ絵を描くやる気が出ないな~と思ったら、そんな時こそ真剣きって創作に励むといい。
絵画の習作は完成作を予言する
習作を作り、習作を作るなかで完成作をイメージする。
あるテーマを定め、習作を重ねるなかで目的とする絵が発見されることもある。
かくいう僕も習作をたくさん重ねている。
僕は今「幻想の森」や「大地より生えたる者」という油絵の連作を行っている。
当然イメージの中ではどういう絵になるかは見えている。
それを絵画という形に翻訳するための実験として習作を行う。
色々な表現の仕方があるだろう。
それを一つ一つ実験としてつぶしていくのだ。
この習作の過程のなから徐々に描くべき絵画が見えてくる。
習作をする中で新しい絵画の発想が湧いたりもする。
こうして制作された絵画の完成作は習作あってのもの。
絵画の完成作と習作とは、流れの一続きなのだ。
習作は練習台だから完成作とは関係ないなんて位置づけではない。
習作が完成作を生み、その過程全体を含めて作品と呼び得る。
習作は一見すると単なる練習台に見られがちだ。
しかし本当は完成作を支えているのが習作である。
完成作を導き出し、新たなる可能性を開くのが習作だ。
習作に対する見方を変えることで創造の扉が開かれるかもしれない。