「漫画は芸術か」?
こんな質問がインターネット上にあった。
僕はこれを見た時、発信せねばと強く感じたので書かせてもらう。
「漫画は芸術である」
と。
少なくとも僕はそういう地点に立って漫画を制作している。
あなたはこう言う。
漫画は娯楽に過ぎない。
単なる娯楽がどうして芸術なんだ?
それでは一度漫画が芸術になり得ることを証明するために歴史を振り返ってみよう。
かつて浮世絵や落語は大衆娯楽だった
日本の江戸時代、浮世絵という絵画が流行した。
浮世絵は当時の風俗を描く風刺画で、大衆文化の一つだった。
当時の人々は浮世絵を芸術とは言わなかっただろう。
例えば雪舟や狩野派の絵を芸術と呼んでも、浮世絵は大衆娯楽だとの認識があったようだ。
しかし今はどうだろう?
19世紀後半のヨーロッパの画家たちに大きな影響を与え、ジャポニスムという潮流を巻き起こした浮世絵はまぎれもなく芸術と呼べる。
僕は落語がとても好きで良くiPodで聴いている。
ちなみに五代目 古今亭志ん生が一番のお気に入り。
この落語にしても江戸時代の日本で成立し、当時は大衆娯楽という位置付けであった。
しかし今はどうだろうか?
幾多の落語の名作を聞いてみると、
話しの深み、人情の機敏、人間性から発される可笑しさ
など芸術の領域に確実に入っている。
発表当時は娯楽と考えられていたものでも時間がたつとともに、その時代を象徴する芸術になり得るという事である。
全ての漫画が芸術なのか?
もちろん全ての漫画が芸術か?と言わればそうではない。
漫画に近い芸術に映画がある。
映画も漫画もストーリー、キャラクター、セリフ、ヴィジュアルという表現で共通している。
しかし今日全ての映画が芸術かと言われたらそうではない。
やっぱり娯楽のための、エンターテインメントのための映画というものが存在する。
芸術と呼ばれる作品と娯楽と呼ばれる作品を分けるものは一体何なのだろうか?
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純粋な内的表現に基礎を置くものが芸術
娯楽、エンターテインメントと呼ばれるものは、前提としてお客さんを楽しませるという目的がある。
もっと言うとビジネスとして利益を出せないものは市場で残っていけない。
だから市場を分析し、より多くの観客を楽しませるために、表現よりは妥協を強いられ、最大公約数に満足されるものを作る方向へ動く。
一方「芸術」が目指すものは純粋な内的表現である。
作家の内なる現実を、作品を通して形象化する。
そこでは市場が何を求めるかというよりは、作家自身の内的な葛藤が作品の方向性を決める。
しかしそれによって生み出されたものはオリジナリティがあり、上手くいけば不滅の価値を持ち得るだろう。
このように娯楽、エンターテインメントと芸術は相反するような要素を持っている。
芸術と呼べる漫画とは?
上の流れを考えると芸術と位置付けられる漫画がどういうものかがハッキリする。
①創造の大前提として自己の内的表現を基準に作られている漫画。
②既存の枠を壊し、自分の価値観で再構築されたルールを持つ漫画。
③漫画の形態を越えてアートの要素を持ち得る漫画。
以上である。
人を楽しませるという役割を漫画は持っているべきだと思う。
しかしそれ以上に自己の内的表現を出発とする漫画は芸術だ。
それもただ既成の漫画という枠の中でだけ描くのではない。
それでは過去の漫画家がやってきたことの焼き直しでしかない。
芸術というからには、既成の概念をぶち破る奔放さが欲しい。
漫画のルールに従うのではなく、むしろ自分が漫画のルールを決めるのだ。
そして漫画はアートの要素を取り入れなければならない。
例えばピカソやダリやバスキアがやったような、非常に表現的な要素を盛り込むことでインパクトが出るだろう。
漫画を芸術として扱う者は、漫画の概念を打ち破り、新しい何かを生み出す人だ。
僕は絵を描く。
漫画を描く。
そして漫画とアートを融合する。
このブログで漫画とアートが融合する過程が描かれることになるだろう。
漫画は芸術かの最後に
というわけで必ずしもすべての漫画が芸術なわけではない。
しかしある条件を満たしたものは芸術の領域に入る。
「自己の内的表現を起点に創作を始める時、それは芸術である」。
映画や音楽、落語や彫刻でも永遠に残る作品もあれば、ある時代には受けるけどやがて忘れられる作品もある。
それが芸術かどうかを知りたいと思うのなら、永遠性を持つ作品を研究することだ。
これらの作品、そしてそれを作った作家がどんな人で、どんな人生を生きたのか?
どんな体験の末にその作品は生まれたのか?
ここを知ることで、芸術の本質に気づけるようになってくる。
芸術とは何だろう?芸術についての考察は以下の記事に書いてあります♪