絵画の現実感ってどんなものなのかな?
僕はヤフー知恵袋で、以下の印象深い質問を見かけた。
絵画作品は現実とは違う現実感をもたらしてくれるそうですね。
現実にはありえないくらい誇張した表現が、かえって現実感をもたらすというのは一体どういう意味なのですか?
という内容。
あまり絵画を知らない方から見ると、キュビスム作品や晩年のセザンヌの抽象化された絵に?と感じてしまうのも無理はない。
例えば絵の上手なイラストレーターなら、写実的に自然や人物を描く。
リアルに描かれた絵の方が現実感があるのではないか?
そんな風に思うかもしれない。
しかし絵画の現実感は、そっくりに描かれた絵にだけあるのではない。
この記事では絵画が現実をこえた現実感をもたらしてくれる理由について、筆者の見解を書こう!
Contents
絵画の現実感は作家の内的な真実を表わすもの
僕はアートとして絵を描くというのは、作家の内的な真実を表わすものだと思ってる。
なぜ芸術家は、絵を描いて表現をするのか?
表現せずにいられない内的な衝動があるからである。
絵を描く意欲が湧くには、描きたい何かがあるからだろう。
アートとして絵を描く以上、そこには何らかのこだわりがあるはずだ。
こだわりは、「自分は周りとは違う」という意識のあらわれである。
カエルの絵をひたすら描く人がいるとしよう。
この人はカエルをひたすら描くことにより、他の絵描きとは違うことを知らぬ間に主張している。
カエルを描く人は、カエルに対してこだわりがあるから描いているはずだ。
世の中カエルを描く人ばかりではない。
だからカエルを描き続けてる時点で、他との差別化ができている。
カエルをたくさん描くという行為が、他の絵かきとは異なる自分の立ち位置を表しているのだ。
ぼくは絵描きを、「絵を描くことで周りとは違う自分を表現する人」と定義しよう。
絵を描くことで自分を表現するとは、普通の人が描くようには描かないという意味でもある。
例えば写真のように写実的に描く、自分のイメージを絵にする、激しい色彩で塗りたくるとか、いろいろな描き方がある。
絵描きが独特な描き方をするのは、他の人と違う自分を示すための意思表示なのだ。
自分らしい絵が描けていれば、その他大勢の絵かきとは違う自分としていられる。
絵描きになるような人は我が強いというか、自分らしい作品を生み出したい人が多いだろう。
そうでないと、売れる見込みもない絵に人生を捧げようとは思わないはずだ。
絵描きには強い自己顕示欲、表現欲求があるから、茨の道も突き進むパワーが生まれる。
芸術家にとって強烈な表現欲求は、最高の才能といえる。
そんな人たちが絵を描くから、現実をこえた現実感をもつ作品になるのだ。
いかに自分らしく、その人の感覚を表現できるかという世界で、人マネをする事にどんな意味があるだろう?
芸術家達は、ひたすらに自身の表現を追い求める。
つまり絵描きには、それぞれの現実感があるということだ。
写実的な絵は現実感ではないのか?
対象をそっくり描けていれば、それが現実感なんじゃないの?
たしかに現実をありのままに描ける人は、絵を通して現実感を表せている。
しかし対象をそっくり描いただけの絵は、写真の真似ごとをしているに等しい。
自然は、それ自体で完成した芸術だ。
完成した自然をそっくり描き写すのは、自然の二番煎じを作るのに等しい。
そっくり描く能力を否定しているわけではない。
それはそれで、素晴らしい能力だ。
しかし絵画における現実感は、対象をそっくりに描く事だけにあるのではない。
絵画における現実感とは、その作家が見る独特な現実感を、絵によってあらわすことにあるのだ!
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内なる感覚を表現するからその人だけの現実感になる
個性の強い表現者は自分の個性や現実感を、作品に昇華する術を知っている。
人類史上不滅の表現者には、特異な人間が多いのを見ても分かる。
作品が個性的というのは、それを生み出した人の内部にも、特異な感覚が存在するということだ。
僕は絵画の重要な役割として、以下があると思っている。
絵画は新しい現実感を突きつけ、人々の意識を覚醒させる役割がある。
これを聞いて、よく分からないと思う方が大半だろう。
一般に絵画は見た目に美しく、心地良く、キレイであることに価値を感じる人が多い。
確かに印象派の絵画には、そんな作品が多い。
眼のための、視覚のための芸術と言える。
しかし表現者の独特な現実感を表した絵は、人の美に対する意識を変えさせる力があると僕は感じる。
例えばファンゴッホの絵画を思い出してほしい。
ゴッホが自分様式の絵画を描くまで、誰も現実世界をファンゴッホのようには見ていなかった。
人々は太陽が真っ黄色で、糸杉が打ち震え、麦畑が波打つゴッホのようには、自然を見ていなかった。
ゴッホは絵画によって、彼独特の現実感を示したのだ。
バロック時代に活躍したスペインの画家エル・グレコは、人物を極端に引き延ばして絵を描いた。
これはエル・グレコにとっての、人に対する現実感を描いているのだ。
当時、エル・グレコのように人物を見ている人はいなかっただろう。
エル・グレコの絵画によって、人々は新しい現実感を提示されたのだ。
自然を円柱、円錐、球体など幾何学的な形として捉えたセザンヌの現実感は、当時の人たちには理解しがたかったに違いない。
しかしセザンヌは独特な世界に対する見方を、絵を描くことによって示した。
セザンヌの変わった現実感が絵画となり、20世紀美術を切り開くことになったのだ。
上の芸術家たちは内なる個性に従うことで、人々にかつてない現実感を示した。
新しい現実の見方や視点を、絵を描くことによってあらわしたのだ。
人々に新たなる現実感を示すというのは、すごいことだ。
単にキレイとか美しいという世界とは、レベルの違う場所に位置する芸術だ。
これこそ芸術である!
そして芸術家たるもの、人々の首をわしづかみ、新たなる現実感を示す覚悟で創作をするのだ!
ああ、なんと未知でクリエイティブなこの世界!
芸術の素晴らしさがここにある!
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現実を越えた現実こそ、本当の現実だ
個性のある表現者は、自分の現実感をあらわすような絵を描く。
独特の現実感を絵で描くためには、自己の内部に入り込み、より本質的な自身のリアルをつかむ必要がある。
それは絵描きにとってリアルな感覚だから、現実を越えた現実感なのだ。
絵画作品が、現実とは違う現実感をもたらすとは本当のことだ。
ゴッホは星月夜という絵で、幻想的な星空を描いた。
実際の夜空は、ゴッホが描いたようなものではない。
しかしゴッホは、彼の心の目で捉えた現実を描いたに違いない。
それは僕たちが見上げる夜空とは違うだろう。
しかし紛れもなく真実であり、現実を越えた現実感を持っている。
なぜありもしない夜空の絵が、真実といえるのか?
芸術家が、内なる告白を絵を通して語るからだ。
ゴッホは星月夜を描くことで、自分にとっての現実感を告白した。
ゴッホには、夜空が「星月夜」のように見えていたという告白をしたのだ。
ゴッホは人々に、新しい夜空の現実感を見せてくれた。
絵によって新たなる現実感を提示する作品は、すばらしい芸術である。
上の絵は筆者が描いた、幻想の森の絵だ。
僕も森を、普通には描かない。
普通に描いたら、自然の二番煎じに過ぎないからだ。
だから、筆者にとっての現実感を描く。
それは奇妙に曲がった木であり、燃え盛る木であり、万物が躍動する何かだ。
上も、筆者が幻想の森を描いた油絵。
実際にある木とは、違うだろう。
まるで漫画のような絵だ。
しかし表現者は、現実をこえた自分自身の現実感を描くのだ。
自分にとっての現実感を描くためなら、僕はどんなものでも激しく変形させる。
破壊する。
そして、また創造する。
激しく変形した異形な姿が、筆者の見る世界だからだ。
これが筆者の漫画アートであり、現実感なのだ!
絵画は現実をこえた現実感を持つの最後に
「絵画では現実をこえた現実感を描く」ということについて書いてきた。
絵描きは自分にとってより真実な現実感を、絵で描くのだ。
現実感の仕組みは、作家の個性にある。
表現者は他のクリエーターとは異なる立ち位置を、作品によって示すだろう。
普通の人が見るようには、世界を見ないだろう。
より自分に近い、独特な視点で世界を把握するだろう。
これが表現者独特の現実感となる。
そんな個性から生み出される作品は、その人だけの世界になるに違いない。
しかし単に現実をそっくり描き映すよりは、はるかにリアルだ。
表現者にとっての現実感を絵に描くから、ただ現実を写した絵より作家にとってはリアルなのだ。
そんな表現者の作品を見た人々は、新たな現実感を知るに違いない。
表現者にとっての現実感を描いた絵は、人々に未知の世界を垣間見せてくれる。
これが現実をこえた現実感を持つ、絵画のカラクリなのである。