僕の認識する世界観は以下記事に書きました。
これが本当かどうかは問題ではありません。
僕はこうとらえる、それだけの話です。
僕の認識では宇宙的視点から見た時、万物は一つであり、完璧な充足そのものです。
人間がとらえる嫌な出来事=不足は、実際には何も起きていません。
一時の夢のなかで、嫌な出来事と解釈する体験をしているだけです。
もし不足を感じることがあったら、僕はすぐに思い出します。
「すべては元々完璧な充足のなかにある」という事実を。
「じゃあオレが体験したと思ってる不足の事態は、実際には何も起きていない」。
こうとらえます。
ということは自分が感じた不足感や体験した過去は、幻覚をみただけだと思い出せます。
つまり何一つ悩む必要がないことが思い出せます。
それどころか今この瞬間、あらゆることが完璧にうまくいってる充足の状態にあることを思い出せます。
するとさきほど感じた不足感は夢であり、今ここに在る喜びに意識を向けることができるのです。
僕は不足や嫌な出来事を否定しないし、それを感じたい人は大いに楽しむとよいと思います。
しかし僕の認識にそって思い出すと、すべての不足が嘘であり、存在しないことが思いだせます。
だから思い出した瞬間に心が軽くなり、今ある幸せに意識を向けることができるのです。
不足感を抱いちゃいけないわけではないので、僕のような感じ方をする必要はないでしょう。
でも僕は必要のない不足感は「もともと存在しない」ことを思い出し、瞬間心を軽くできます。
この習慣は人生を楽園にするために、大切だと思ってます。
人間的な物理次元からみた時、僕が今この瞬間認識していないことは「存在していない」のとほぼ同じ状態です。
大きな視点からいえば、全ての瞬間に万物が存在しますけどね。
でも分離した肉体のなかにいる僕からすれば、僕が認識していないものは、存在している保証がどこにもないのです。
僕が部屋で眠っている時、夜空に満月が浮かんでるかどうかは誰にも証明できません。
僕が仕事に熱中している時、アメリカ大陸にアメリカ合衆国が存在することを、誰が証明できるでしょうか?
僕が視覚で認識していないものは、形を成している証拠がどこにもないのです。
これは現代量子物理学でもいわれていることです。
僕が意識を向けた時、その瞬間に、すでに在る対象が僕の世界で、はじめて存在できるのです。
こういう視点から見た時、僕とは宇宙全体の創造主ということになります。
僕が意識を向けることによって、それは初めて僕の世界に現出できるのだから。
これは僕だけでなく、意識体であるあなたも同じです。
すべてが一つであり、自分が意識を向けた時に対象を存在させることができるのです。
だからもともと存在しない不足や嫌な過去に、意識の方向を向けなくてよい。
そこに意識を向けないということは、それは存在しないのと一緒です。
心にモヤッとした嫌な出来事にとらわれた時は、思い出してください。
「もともとすべての不足は幻である。我々は完璧な充足の中に常にいる」ということを。
そうすると僕のように、人生を楽園として過ごすことができるのです。
今日もご来訪ありがとうございました!