ここでは絵のジャンルに関する、筆者の特異な考え方を書いてみよう。
世の中にはいろんな人がいるので、筆者のような変わった考え方が何らかのヒントになるかもしれない。
絵を描く人には二つのタイプがいる。
●絵を描くジャンルを絞る人
●ジャンルを問わずあらゆる絵を描く人
2つはどちらが優れてるわけではなく、絵を描く人の個性といえる。
以下よりそれぞれの絵のジャンルに関する人に迫ってみよう。
Contents
絵を描くジャンルを絞る人
絵を描くジャンルを絞る人は、得意な絵のジャンルを決めて、それだけをひたすら描くタイプの人である。
例えばひたすら猫の絵を描いて、猫の絵を描かせたらすごいというような立ち位置にいる感じだ。
この場合同じジャンルの絵を描き続けるので、そのジャンルの絵の技術が飛躍的に上がるだろう。
またビジネスとして見た時も、いろんな絵をほどよく描ける人よりも、あるジャンルに秀でた絵を描ける人の方が仕事を得やすいだろう。
そのジャンルの絵が好きな人に喜ばれるので仕事につなげやすく、賢い戦略であるといえる。
あるジャンルの絵をひたすら描いて技術を上げるというのは、職人的な立ち位置の絵描きともいえるだろう。
ジャンルを問わずあらゆる絵を描く人
絵を描く人のなかには、ジャンルを問わず何でも描く人がいる。
人物でも風景でも動物でも静物でも漫画でもイラストでも、水彩画でも、なんでも描くような人だ。
筆者はあきらかに、こちらのタイプである。
いろんなジャンルの絵を描く人は、表現者自身が絵のジャンルよりも優位にあるのだと思う。
絵のジャンルを絞る人は、そのジャンルの絵が得意だから、それだけを描くのだろう。
この場合表現者よりも、絵のジャンルの方が優位にある。
いろんなジャンルを描く人は、表現者が絵のジャンルよりも優位にある。
絵をジャンルで縛るよりも、自分という表現者を打ち出すことに、価値を置いている人だ。
どちらが良い悪いではない。
しかし筆者は絵のジャンルよりも、表現者である自分を優位に創作を行う人でありたいと思う。
以下より、なぜ筆者が絵のジャンルを絞らないほうが良いと思ったのかについて書いていこう。
なぜ絵のジャンルを絞らないのか?
絵を描くうえで自分の得意な絵のジャンルを持ち、そのジャンルにおいて秀でようとするのは大切だ。
しかし絵のジャンルを絞ることで、表現の幅を自ら狭くすることになるだろう。
力を一点に集中させれば、そのジャンルの絵の完成度を上げることはできる。
この考え方は、絵が技術の積み重ねの集積という捉え方なのかもしれない。
確かに絵を描く技術を磨くことで、絵の質は上がる。
しかし筆者は、根本の点で違うとらえ方をしている。
絵は技術の集積ではない。
表現者としてある地点での姿が、作品なのだととらえている。
多くの人は絵の練習を重ねて、ある目標に到達するために、絵を描くと考える人が多いのではないか?
例えば画力を上げるために、ひたすらジャンルを絞って練習するというように。
筆者の考えでは、絵を描くことに目標などはない。
その時点での表現者の在り方が、作品に反映されるのだ。
作品は表現者の在り方によって、時と共に変わっていくだろう。
その時、作品は進化しているのではない。
表現者と共に、作品も変化しているだけである。
芸術に進化など、ないのだ。
キュビズムよりも、ルネサンス絵画の方が優れているというわけではない。
それぞれの時代に、それぞれの様式が流行った。
それだけの事である。
これは画力を上げる練習をしなくていいと言っているのではない。
絵のジャンルを絞り、何かの目的へ向けて絵を描くということを、筆者はしていないだけである。
絵は表現者が誰かをあらわすツールなのだと、筆者は思っている。
それが、アートとしての絵を描くことなのだ。
確かにジャンルを絞って絵を描く人でも、描く絵によって何かを語り表現することができるだろう。
しかしそのジャンルの絵でしか表現できないというのは、ぼくの価値観からすると、自分を限定してしまうように感じる。
ぼくはあらゆるものを描き、そこに自身をこめたいと思う。
ジャンルにとらわれる人は、絵という枠に自分を当てはめて絵が生まれる。
しかし僕は、ジャンルではなく自分を起点にして絵を考える。
自分というスタイルをまず作り、それを様々なジャンルに展開していくような形だ。
ジャンルに特化して絵を描く人は「絵>表現者」のような状態だ。
これは表現者である自分よりも、絵のジャンルの方が強い状態。
僕の場合は「自分>表現者」。
これは絵のジャンルよりも、表現者である自分の方が優位にある状態。
何を描くかは、自分が何を表現したいのかによって選択している状態だ。
まず自分という表現体があって、その表現物として絵がある。
そこにはジャンルの規制など、一切存在しない。
絵のジャンルを絞る画家と絞らない画家
画家のゴッホは、絵を描くジャンルを絞りはしなかった。
ゴッホという様式がまずあり、それを風景でも人物でも、静物でも自由に展開する。
ゴッホはジャンルに縛られるのではなくて、自分という表現を絵で展開させることを選んだ。
セザンヌやゴーギャン、ピカソなどは自分様式の絵を持っており、絵のジャンルで描く対象を絞ることはなかった。
セザンヌはリンゴや山、人物や生物や風景、なんでも描いた。
彼らはジャンルを絞って上手さを磨くという、積み上げ式の考え方をしていない。
自分というスタイルを基礎として、あらゆるものを描くことで表現した。
一方ジャンルにくくって絵を描いた人が、風景画家のコンスタブルやターナー。
僕は風景画家では、イギリスのコンスタブルがとても好きである。
コンスタブルは田園風景や自然を写実的に描く画家で、絵から発される雰囲気が最高に素晴らしい!
ジャンルを絞った絵は、そのジャンルの絵の完成度がとことん高められるというメリットがある。
だからコンスタブルの描く世界は、田園風景の魅力がとことんまで高められている。
そのジャンルの絵が好きな人には、とてもうれしい絵描きになれるだろう。
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絵のジャンルを絞らない筆者が考えていること
絵のジャンルという枠から自分を表現する人と、自らが主体で絵を展開させる人。
基準を絵に置くか、自分に置くかという違いだ。
どちらもそれぞれの素晴らしさがある。
しかし僕は間違いなく、自分を起点として自由に展開させる表現者でありたい。
なぜなら僕が絵を描くというのは、自分を強烈に主張することだからだ。
自己を起点として、一切を描くことで表現する芸術家でいたいと思うからだ。
絵のジャンルに支配されるのではない。
自分が絵を、支配するのだ。
こういうことをブログで書くのも、一つの発想をあなたにお伝えしたいからなのだ。
なぜなら人が絵を描くと聞くと抽象画、具象画、風景、静物などとジャンルの区分けを始める。
しかしこの発想がそもそもからして、表現を縛る枠なのだということを僕は叫びたかった。
表現者としての自分が絵よりも優位にあるから、ジャンルよりもあらゆるものを描く中で自己を表現するのだ。
描く対象は、何でもいい。
何を描こうと、描く対象の方が表現者の様式に変化していくのだ。
そういう表現者でありたいと思う。
絵を描くことは、小手先のテクニックで終わるようなものではない。
絵を描く行為はもっと自分の真実に根差した、爆発力あるモノである。
芸術とは、絵を描くとは、僕にとっては戦いだ。
戦いというのは、苦しく辛いものではない。
絵を描くのは、楽しく癒される行為だ。
しかし自分自身を最大限表現し、それによって何らかの価値を生み出したいと思う筆者にとっては、戦いというとらえ方もできるということだ。
絵を描くとは、自己との終わることのない戦いである。
宇宙にたたずむちっぽけな自分の魂との葛藤を、その一部始終を表明する戦いなのだ。
この全てのありさまが、僕の漫画アートなのだ。
そこにあるのは、ただこれにのみ生きるしかない人間の姿である。
だから僕は「芸術とは自己の魂の表現である」と考えて創作をする。
命を懸けた表現の戦いは、ジャンルやテクニックという枠に到底おさまりはしない。
ましてや「あらまあ美しい絵ですね」なんて基準は蹴り飛ばしてやる。
そして揺るぎなき自己の表現を確立するのだ。
絵は美しく、上手く、きれいであるために存在するのではない。
絵を描くのは、生死を賭けた自己との闘争なのだ。
ここから僕の漫画アートは生まれるのだ。
絵を描くとは生きることそのものであり、自分という生命をかけた一大ドラマである。
だからこそ、ジャンルなんてちっぽけな枠にとらわれはしない。
絵を描く基準は常に表現者にあり、自己というフィルターを通して見える世界を描く。
この基準に立って絵を描くことで、人生を生きる事すべてが絵に生かされるのだ。
あなたの持つあらゆる特性が絵に生かされる。
あなたのあらゆる思いが絵に生かされる。
絵のジャンルに関する思いの最後に
僕は今回、特異な絵のジャンルに関する考え方をご紹介した。
世の中には、このように考えて絵を描く人間がいるという事を書きたかったのだ。
あなたにはあなたなりの思いがあるだろう。
それでいいのだ。
その思いを最強に先鋭化させることで、あなたのオリジナリティは生まれる。
間違っても中途半端な立ち位置で安心してはいけない。
どこまでも深くあなたを突き詰めて欲しい。