ゴッホの手紙にはどんな内容が書かれているのか?
ゴッホは生前、弟や友人、親族の者たちにたくさんの手紙を書いている。
その内容はゴッホの信念や日々の記録、作品制作に関することなど、いろいろなことが書かれていた。
ゴッホは美術のアカデミー的価値観にたいする反抗の思いも手紙に書いており、これがとても感動する内容になってると僕は感じた。
この記事ではゴッホが美術のアカデミズムに反抗して自らの芸術的信念を表明した手紙の内容について見ていこう!
Contents
手紙で美術のアカデミズムに反抗する内容を書いたゴッホ
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年~1890年)は美術の歴史で言うとポスト印象派(後期印象派)に属している。
ポスト印象派とはモネやルノワールなど印象派の画家の流れを受けつつ、それを乗りこえていった画家の一派のこと。
ゴッホやセザンヌ、ゴーギャン、スーラなどが後期印象派にあたる。
ファン・ゴッホは一時は印象主義運動に加わったけど、そこにおさまりはしなかった。
ゴッホは事物の最も深い真実を描き出そうとし、そのためには伝統的な絵画の法則にこだわらなかった。
ゴッホは絵画のなかで感情や表現のために、形と色彩を自由に扱ったのである。
このような表現者だから、美術におけるアカデミズムとは相いれなかったゴッホ。
ゴッホは手紙の内容で、美術のアカデミズムに反抗する姿勢をしめすことになる。
アカデミズムに反逆するゴッホの手紙の内容
ゴッホはその生涯のなかで弟や友人知人へ当てた手紙を700通以上のこしている。
手紙のなかでゴッホは自分のことや、芸術、希望や夢、読んでいる本などについても書いており、手紙を読むとゴッホの人となりが分かってくる。
僕もゴッホの手紙はほとんど目を通したけど、本当に心を打つ感動がある。
ゴッホの手紙の内容は一人の芸術家の魂の告白ともよべるだろう。
手紙のどれを見てもそこには独学の人であり、美術におけるアカデミズムには常に反抗する、革新的なゴッホの人間像が浮かび上がってくる。
アカデミズムは美術の世界に浸透していた伝統的な権威主義だった。
絵といえばラファエロが描いたような美しい、滑らかに仕上げられた神話や歴史画が最優位に置かれていた。
要するに誰が見てもそっくりでうまい絵に価値があると考えられていた。
ゴッホの時代はまだ美術のアカデミズムが幅をきかせていて、印象派でさえ初めのうちはまともな作品とは扱われていなかったほど。
そんなアカデミズムに対してゴッホは手紙でこう書く。
「表現の深さ…つまり一言でいえば生命というものは問題にされず、ただ幾何学的に正確だというだけの頭部デッサンなどは習うまでもない」
~ゴッホ
このゴッホの手紙を読んだとき、ゴッホの自らの芸術観に対する確信がすばらしいと思った!
批判してくる画家仲間に手紙の内容で反発するゴッホ
上の画像はゴッホがオランダで画家修業をしていたころに描いた傑作「ジャガイモを食べる人々」。
この絵を見た友人の画家ファン・ラッパルトはゴッホを批判したという。
人物の描写がごつごつしていて、美術のアカデミックな視点から見て美しくないというようなことをゴッホに伝えたようだ。
ゴッホはすぐさま手紙の内容で反撃した。
「アカデミズムは絵画芸術における現代の熾烈な要求に少しも答えていない」
~ゴッホ
農民を描くのになぜ理想化して描く必要があるのか?とゴッホは問う。
ゴッホは美術のアカデミズムのような流麗な絵を描きたいわけではなった。
「じゃがいもを食べる人々」では、農民がじゃがいもを耕したその手で食事をしている様子を描く必要があるとゴッホは感じていた。
ゴッホはじゃがいもを食べる人々で「都会人とは違う農民の生活様式」を表現したかったという。
ゴッホにとって芸術とは、感動を呼び起こすためのメッセージなのである。
こうした立場に立てば事物をありのままに描くのではなく、ゴッホが対象をどう見たかを描くことが重要になる。
「嘘と言えば嘘だが、真実よりも一層真実な嘘」
~ゴッホ
とゴッホは手紙に書く。
例えば画家がリンゴの本質を描くことになったとしよう。
そのためにはリンゴの外見的な形と色を写しただけでは、その本質を表現したとはいえない。
画家がリンゴをどう見て、どう感じるのか?
リンゴをみて感じた内的感覚、内的な真実を表現するためなら、リンゴの表面的な形にとらわれる必要はない。
このようなことをゴッホは手紙で書きたかったのかもしれない。
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手紙の内容で自らの芸術的信念を書くゴッホ
ゴッホは絵を描くことについて、手紙の内容で以下のように述べている。
「もし土を鋤(す)いている人間を写真にとれば、その人間は必ず土を鋤いてはいないだろう。
だから理想とすべきは、人間を動きにおいて描くことだ。
~ゴッホ
「土を鋤(す)く人間が一服したり話をするとき、腰を伸ばすその一瞬、彼の両肺を満たしている空気を描かねばならない。
これこそが絵画の本質であり、ギリシャ人もルネサンスも古いオランダ画派も成さなかったもの。」
~ゴッホ
このようにゴッホは考えていた。
描く対象の表面ではなくもっと深く迫って、その人間たらしめる何かを描かねばならないと考えていたのだろう。
こんなこともゴッホは手紙に書いている。
「私が得ようと努力しているのは手のデッサンではない、手の動作だ」
~ゴッホ
ゴッホは手のデッサンをするときも外面の線をなぞるのではなく、手の動きそのものをとらえたかったようだ。
ゴッホの絵によく見られる形の無骨さや不正確、様式上の不完全さ、技法の不適切さは、自らの表現を見きわめたすえにおこなった錯誤だったのだ。
テクニックが創造力にとって変わるアカデミーの人達なら決して犯さないあやまり。
しかしファン・ゴッホは彼らと違い、自らを創造しないではいられなかった。
例えば絵画をやる人がいて、石膏デッサンをとにかく正確に、上手く描くことに心血を捧げているとしよう。
この人たちから見たらゴッホのような無骨な描きかたは未熟としかとらえられない。
実際にゴッホはアントワープの美術学校に一時的に入っていたとき、美術の先生からデッサンの描きかたが未熟だと指摘されたことがある。
しかしそんなことにはおかまいなく、ゴッホは自らの芸術的信念にそって描き続けた。
結局アントワープの美術学校は3か月ほどで退学してしまうのだが…。
ゴッホは手紙のなかで、ただ正確に対象を描きうつすことは創造ではないといっている。
画家が感じる真実を表現するためには対象の正確さは、むしろ必要ない。
アカデミックな流麗さをこえた、画家独自の感覚をいかに表現するかが大切だと。
ゴッホはこのような自己の芸術に対する信念を手紙で書いている。
ゴッホが自己の芸術的価値観を語った感動的な手紙
ここではゴッホが自身の芸術的価値観を語った、感動的な手紙の内容を書いてみよう。
以下は、写実的な絵に対するゴッホの気持ちが語られた手紙だ。
「僕の人物が正確だとしたら、僕は落胆するとスレーに言ってくれ。
アカデミー風に正確であることなど、欲していないのだと言ってやれ。
つまりこういうことだ。
炭坑夫の写真を撮ったとしても、石炭を掘っている人間を表現したことにはならない。
ミケランジェロの人物は信じられない程足が長く、尻や背中が大きすぎるが、僕はそれを崇拝しているのだと言ってやれ。
僕がミレーやレールミットを本物の芸術家だと信じるのは対象をあるがままに、無味乾燥な解剖学的正確さで描くからではなく、彼らミレー、レールミット、ミケランジェロが信じるままに描くからだ。
僕が心から学びたいと願っているのは、そのような不正確さ、逸脱、改造、現実の変更なのだ。
それらは、そう、嘘といってもいい。
しかし、文字通りの真実にもまして真実なのである。
~ゴッホの言葉」
ぼくはこのゴッホの言葉を読んだとき、胸の底から感動した!
普通は現実とそっくりに描かれた絵をうまいとして、評価する傾向がある。
しかしゴッホの価値観は違った。
ただ物理的に正確な絵など、何かを表現したとはいえないとゴッホは語るのだ。
ゴッホは、ミケランジェロやミレーの絵を敬愛していた。
ミケランジェロといえば、男も女も筋肉ムキムキで、誇張されて描かれている。
絵として正確かという点でみれば、ミケランジェロの絵は不正確である。
しかしゴッホは、現実と逸脱したミケランジェロのような絵こそ、偉大だと言っているのだ!
なぜならミケランジェロの絵には彼にしか描けない、ミケランジェロ自身の価値観が宿っているからだ。
ただ正確に描かれた絵よりも、画家が信じたままに描くミケランジェロたちの絵に、ゴッホは感銘を受けていたのだ。
ぼくも全く同感である!
芸術家は自身の魂を作品に込めて、表現するのだ!
ゴッホは、この重要なことを理解していた男なのだ。
だからゴッホは、偉大なのである!
ゴッホの手紙の内容の最後に
ゴッホは手紙のなかで自らの芸術的信念を語る男だった。
絵画においてアカデミズムが幅を利かせていた時代に、ゴッホは権威に対する反逆の姿勢をしめした。
みんなが絵は対象を正確に、理想的に描くのだと思っているところへ、畑を耕した土や汗の臭いがただよう、無骨な絵を描く方向に進んだ。
石膏デッサンをとにかく正確に描けるという画学生はたくさんいて、それこそが良い絵だと考える人もいるだろう。
対象を正確にとらえるための練習として、正確なデッサンを描くのは成長につながる。
しかし表現者として絵を描くときは事物のより内奥にせまり、その本質を描かねばならない。
そのためには対象の表面を描くことにとらわれれず、自らの表現をしていく必要がある。
こうゴッホは言いたかったのかもしれない。
ゴッホは最終的に練習のために描くデッサンも、自分様式の無骨な線で描くようになっていく。
美術のアカデミー的正確さは、真に何かを創造してはいない。
創造するとは単に対象を映すことではなく、より先にある画家の内的真実をその人だけの方法で表現することにあるのだ。
ファン・ゴッホの手紙の内容はこれを教えてくれている。